障害児者施設

307 ~ 308 / 1229ページ
【笠井学園】
 昭和三十年代まで、重い身体障害者を受け入れてくれる施設はほとんどなかった。このため、障害児を持つ父母の一部は一日中子供を柱に縛り付けて働きに出ていたこともあった。このような悲劇を無くすため、県西部初の肢体不自由児施設として昭和三十八年に県は浜松療護園を三方原町に設置し、日赤県支部に経営を委託した(『新編史料編六』 三教育 史料44)。翌年、園の一部を仮教室として県立静岡養護学校西部分校が発足した。また、昭和四十四年笠井町に本格的な心身障害児小規模通園施設として浜松市は笠井学園を開園した(『新編史料編六』 七社会 史料42)。ここは、身体障害だけでなく、言語などの障害の機能回復や療育相談も行われ、親たちの心のよりどころとなることも目的とした施設であった。また、運営は浜松市心身障害者団体連絡協議会に任されたことも特色の一つであった。この協議会は言語障害児を持つ親の会、身体障害者福祉協会、手をつなぐ親の会、肢体不自由児親の会の四団体から構成されていた。
 
【小羊学園 浜松学園】
 精神薄弱児への援護は、昭和二十二年に児童福祉法が制定され、初めて行政として取り上げられたが、制定当時は戦災孤児・引揚孤児・非行児の対策に追われ、児童相談所がその相談と保護に親身になって当たっていた。昭和二十七年、曳馬小学校の精神薄弱児への特殊学級設置を皮切りに、四十年代に言語、弱視、難聴、情緒障害(自閉症)のそれぞれの障害種に応じた教室や学級が市立小学校に設置され始めた。昭和四十年、それまで養護施設であった朝霧荘も精神薄弱児の入所施設に変更し、翌年特殊学級を開設した。昭和四十一年には社会福祉法人十字の園の傘下に山浦俊治が重度精神薄弱児施設として小羊学園を市域に隣接する引佐郡細江町中川に開設した。しかし、多くの精神薄弱児は中学校特殊学級の卒業後の支援は各家庭に任され、就労へは多くの困難があった。そこで、保護者からの強い要望を受け、義務教育を修了した精神薄弱児への、自動車・オートバイ・楽器・繊維等の産業に関わる金工・木工・縫製加工などの職業訓練を二年間行う県立浜松学園が昭和四十二年、豊岡町に開設された。卒園生の就職状況は良好で職場定着率も良かった。そこで、入園希望者が多く、児童相談所は選考に苦慮するまでになっていった。