[浜松まつりの見直し]

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 昭和二十五年から始まった浜松まつりは従来の凧揚げや屋台の引き回しのほか、広告カーニバルや木遣り道中なども加え、総合的なまつりとなった。これについては『浜松市史』四で詳しく述べた。しかし、昭和三十年代後半から四十年代半ばにかけて、まつりでの暴力やけんかを契機に実施期間や会場などを見直す動きが始まった。
 
【暴力事件 暴力団】
 凧揚げに絡んだ暴力事件や寄付金の強要にまつわる問題は戦前からあったが、戦後も大きな課題であった。屋台の引き回しや凧揚げに町外の人や暴力団の構成員を入れる町内があり、町内間の争いやけんかや女性への暴行もしばしば起こっていた。そこで、警察は浜松まつりを前にけんかやたかりの常習者や暴力団員を逮捕(暴力団狩りと言われた)、昭和三十五年はこれが三回にわたって行われ、十九名が逮捕された。それにもかかわらず、昭和三十六年には凧揚げ会場での町内間のけんか、少年による警察官のピストル強奪、少年らによる女子生徒の暴行などの事件が発生した。そこで、翌年、浜松まつりの前に、四カ条の申し合わせを行った。初節句の家庭からの寄付金の強要は禁止され、各町の実情に応じて募金するなど負担過重にならないようにした。また、暴力団の構成員や町外の人を締め出し、町内指定の法被の着用が義務付けられた。これによって、暴力団の浜松まつりへの介入を防止することが出来た。これらの経費と統制の主体は各町の自治会となり、まつりの中心となる組長は自治会長で選任するものとなり、各町内の自治会がまつりの運営権限を明確に持つようになっていった。
 そこで、各自治会の統制の下、小学生の参加の公認、中学生の法被着用による参加、高校生の参加禁止という各町内の子供たちのまつりへの参加ルールが明確になり、まつりの担い手・後継者を育てていく筋道が整えられていった。
 まつりの期間については、参加者の仕事への差し支えへの配慮と経費節減を理由に昭和三十八年は五日間から三日間に短縮された。しかし、同三十九年からまた五日間(ただし、凧揚げと屋台の引き回しは三日間のみ)となり、これが同四十一年まで続いた。そして昭和四十二年からはすべての行事は三日間となり、現在まで五月三日から五日の三日間という原則は継続されている。
 
【和地山公園 中田島会場】
 まつりの会場については、浜松まつりが始まった昭和二十五年から和地山町の和地山公園(旧練兵場)で行われていた。ところが、会場周辺の農地が徐々に宅地化され、農地や宅地への凧の落下をめぐるトラブルや厳しい交通規制がなされたため、地元住民には不満がたまってきていた。「公園とは名ばかり、タコあげのために一年に一度使うだけで放置されていたのでは地元民がたまらない。この際タコあげ会場は別のところに移してもらいたい」という声が地元住民から昭和四十年に強く出された。また、電柱が林立し電線が張り巡らされ、住宅地に取り囲まれた和地山公園では、会場の面積が限られ、凧揚げに参加する組を増やすことは難しかった。その後市当局、浜松商工会議所、自治会連合会などが協議し、昭和四十二年に会場を中田島海岸に移すことにした。中田島会場は三万三千平方メートルと面積も広く、会場近くには電線も民家もなく、砂地に土を入れて地盤を改良したので、凧揚げには絶好の会場となった。しかし、市中心部からは遠く、まつりの参加者にとっても見物客にとっても、たとえ千台の駐車スペースが確保されているとはいえ交通の便も悪く難渋することになった。
 昭和三十年代後半から起こっていた浜松まつりへの不参加を表明する組が表2―46のように徐々に出始め、昭和三十九年に九町が不参加を決め、中田島海岸に凧揚げ会場が変更になった翌年は、前年に比べ凧揚げ不参加の組は八組、屋台引き回し不参加の組は七組減った。例えば、東田町は昭和三十九年、参加の是非を問う住民アンケートで三分の二が浜松まつり不参加を選択したため、レクリエーションに切り替えている。市中心部の住民であっても、まつりについての意識が多様化していることが分かる。
 
【浜松まつり規約 凧揚げ 屋台引き回し おまつり広場】
 このように暴力団を排除し少年非行を防止する約束を作り、会場を整えた。また、まつりは浜松市・浜松商工会議所・浜松市自治会連合会(参加登録自治会)・浜松市観光協会の四者でつくる浜松まつり本部により行われることになった。昭和四十五年二月に浜松まつり規約を制定し、商工業復興に絡んだ浜松まつりから凧揚げと屋台引き回し、おまつり広場の催し(芸妓木遣り道中、民謡おどりなど)という三つの部門に再編していった。このうち、おまつり広場での催しとしては、芸妓による木遣り道中、婦人会による民謡おどり、子供音楽会、浜松城出世太鼓発表会などが行われた。また、お待ちかね抽せん会も行われた。
 
表2-46 凧揚げと屋台引き回しの参加町(組)数、人出の推移

参加町(組)数
まつりの
 人出 
 (万人) 
備考
凧揚げ
屋台
引き回し
昭和33年
60
60
100
・ミス浜松の市内パレード。
・愛知・三重・岐阜・東京・横浜からの観光バスの団体増加。
34年
60
60
114
・沼津・静岡・名古屋・豊橋・岡崎・長野からも団体観光バス。
35年
60
60
144
・4月中旬から下旬に3回にわたって警察による暴力団狩りを実施(昭和41年まで実施)。
・浩宮誕生奉祝の凧揚げ。・広告カーニバル42社参加、600台のオートバイ。
・清水みのる作詞の新民謡「浜松まつり唄」「凧揚げ小唄」できる。
36年
60
60
140
・凧揚げ会場で町内間のけんか事件。雑踏整理中の巡査の拳銃が中学3年の少年に奪
われる。少年らの女子生徒への暴行事件が発生。
・広告カーニバルに300台。
・雨にたたられ観客動員数減少。
37年
60
48
130
・暴力団追放問題もあり統制色強まる。
・浜松市自治会連合会役員会で申し合わせ(①今まで初節句を迎える家庭から10~15
万円の寄付を受けていたが、決して強要しないこと。②屋台の引き回しや凧揚げのた
め、町外の人を雇う町内会もあったが、今年は町内の人で行い、暴力団を入れない。③
まつりの服装は各町まちまちであったが、町内指定の法被に統一する。④参加町内会の
主体をはっきりさせるため、まつりの中心となる組長は各自治会が選任する)。
・まつり中(五日間)の警察による警備動員は延べ1500人計画。まつりの合言葉として
「暴力追放」を強調。
・まつり期間中、小学校授業は午前だけとなり、小学生の参加を公認。・中学生の参加は
自治会長の指導の下、参加者全員がまつり法被を着る。高校生は例年どおり参加禁止。
・広告カーニバルの参加台数減少、代わりに民謡愛好家による民謡踊りが初参加。
38年
62
50
100
・仕事への差し支えと経費節約の理由から、まつりの期間を5日間から3日間に短縮。
39年
53
52
150
・まつりの期間を3日間から5日間に戻す。ただし、凧揚げは3日~5日(40年・41年も)。
・9町が不参加を決める。鴨江町(屋台新造のため)、山下町(町の公民館建設のため)、
上池川・東菅原・森田(凧を掲げる青年の不足)、馬込町(町の経費のため)、東田町(参
加の是非を問うアンケートで三分の二が反対し、レクリエーションに切り替え)。
・広告カーニバルへの参加は30台余と激減。・五社神社御輿渡御はこの年は行われて
いた。
40年
60
48
150
・城北地区自治会連絡協議会は凧揚げ会場の移転を要望。
41年
43
48
165
・広告カーニバルは世界の風俗カーニバルに衣替えするが、この年でカーニバルは中止。
42年
42
48
150
・まつりの全ての行事の期間を5日間から3日間に短縮。
・凧揚げ会場を中田島海岸に移転。
43年
34
41159
・暴力を伴った寄付の強要は減少したが、参加辞退の町が増える。
44年
42
44
190
・凧揚げ、屋台引き回し、おまつり広場行事の3本柱に整理。木遣り道中、民謡おどりから
アマチュアバンドの参加、歌謡フェステイバル、幼稚園児の鼓笛、高校生のブラスバンド、
自衛隊の音楽隊、消防音楽隊の催しに変更。
45年
47
49
200
・浜松まつり本部が「浜松まつり規約」を新規に制定(昭和45年2月16日施行)。
・浜松バイパスの完成によって、市内中心部と中田島との交通緩和。
46年
49
47
80
・浜松市役所のチームも凧楊げに参加。
47年
54
47
100
・この年まで屋台引き回しは駅北と駅南に分かれて実施。
出典:『静岡新聞』、『中日新聞』、『浜松民報(遠州新聞)』、『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『広報はままつ』より作成
注:参加町(組)数や人出数は新聞各紙によって異なるが、『静岡新聞』・『中日新聞』・『読売新聞』の数字を使った