[テレビの普及と紙芝居の廃絶]

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【テレビ】
 昭和二十九年八月にNHK名古屋放送局からのテレビ画像が浜松でも受信できるようになり、この年、市内に百二十六台のテレビが置かれた。当初は商店や工場、裕福な家庭が購入、昭和三十三年までの四年間は毎年約二倍に増えていたが、同三十三年でもその普及率は二・〇%であった。同三十四年四月に皇太子御成婚記念パレードのテレビ中継と同年十二月にNHK浜松放送局でテレビ放送が開始されると、同年は約五倍の伸びを示し、普及率は十七・五%となった。その後、同三十七年三月には約六十%、そして、同三十九年三月末にはほぼ一世帯に一台となる約九十四%となった。
 
【紙芝居】
 終戦直後、娯楽に恵まれなかった子供たちにとって、紙芝居は大変人気があった。子供が幼稚園や学校から帰った午後三時から六時頃まで、さらに日曜・祭日は神社の境内や路地裏に紙芝居屋さんが自転車でやってきて、まず、あめやスルメなどを売り、子供たちがそれを食べている時に活劇・時代劇や新派、マンガなどを三、四種類上演していた。戦前は市内で二、三百人以上、終戦直後は百人余りの業者がいた。中には暴力的な行動を起こしたり、不健全な画を見せる者がいたが、次第に淘(とう)汰(た)され昭和三十三年春には六、七十人ほどになっていた。さらに同三十四年六月には二十余人にまで減ってしまった。テレビの娯楽番組とかち合った時間帯には子供の集まりが非常に悪くなっていた。その頃、「紙芝居屋さん 街頭教師にもテレビ攻勢」「続々出る廃業者 客が集まらずアメ代も出ない」「テレビ物凄い普及ぶり 魅力ある動く画面」「子どもを大事に 巻き返しに努力しているが」「やがて消え行く運命か」といった見出しの新聞記事が出た(『新編史料編六』 七社会 史料123)。専業の紙芝居屋はほとんど廃業し、昭和三十四年六月の段階で細々と営業していたのは農業や養鶏業と兼業の人がほとんどだった。専業者は新聞配達や牛乳配達などに転業していった。