【遊び場 児童遊園地】
昭和三十年代半ばから四十年代半ばは、昭和二十二年から二十四年にかけて生まれたベビーブームの世代が小学校高学年から成人を迎える時期であった。テレビの普及によって子供たちは下校後や休日には、家でテレビを見る機会が増えていった。また、そろばん塾や学習塾、音楽教室などの習い事に通う子供も増えたが、この時期には市内の路地や神社・寺院の境内、公園には子供たちがあふれていた。昭和三十六年に開催された県西部の優良子供会の座談会で子供会代表の発言として、「町の遊び場が少なすぎる」「学校に近い子供たちは放課後の校庭という恵まれた安全地帯をもっているが、その他の子供には切実に求める遊び場がない」「路上の遊びが後をたたず、交通事故の原因ともなっている」などという意見が出され、市街地における遊び場の増設を強く望んだという記事が新聞に掲載された(『静岡新聞』昭和三十六年六月五日付)。当時の児童遊園地の遊具は滑り台やブランコのような幼児・小学校低学年向きのものばかりで、小学校高学年や中学生たちは自然と危険なところで遊ぶようになり、親たちの心配の種であった。しかも、昭和四十年当時、児童遊園地のある自治会は市内三百九十自治会のうち、八十八しかなかった(『静岡新聞』昭和四十年二月二十四日付)。そこで、行政は児童福祉の施策の柱の一つに児童遊園地の整備を掲げ経費を計上しつつも、地元自治会や篤志家からの支援によって徐々に増設していった。昭和四十五年当時、市内には市立児童遊園地が二十二カ所、私立は八十五カ所あり、私立のほとんどが地元自治会や子供会の熱意で実現され、神社や寺院の境内を無償で借りている場合が多かった。市立であっても市有地はわずかに五カ所であり、残りはいずれも民間から市が無償で借りている有り様であった。そのようなことから「篤志家さんにおんぶにだっこ」と批評された(『静岡新聞』昭和四十五年十月十日付)。