【カギッ子 留守家庭児童会】
カギッ子とは両親が共稼ぎのため、首などに家の鍵をぶら下げている子供のことを言うが、これは昭和三十八年三月三日付の『東京新聞』に「カギの子」と記され、また、『サンデー毎日』の同年六月二十三日号に「共かせぎ夫婦のための『カギッ子』保育」とあるのがカギッ子の初出である(『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』)。浜松でも共稼ぎ家庭の増加により、昭和四十年頃からカギッ子が非行に走ったり、交通事故の危険に遭いやすいという問題点が指摘されるようになった。これを受けて浜松市教育委員会は、昭和四十年から小学校を対象に留守家庭児童の実態調査をするようになった。これによると昭和四十年のカギッ子は全児童(三万八千四百七十人)の十二・七五%に当たる四千九百五人いることが分かった。カギッ子率が二十%を超えたのは萩丘、富塚、鴨江、中ノ町、吉野の各小学校などで、新興住宅地が多かった(『静岡新聞』昭和四十年九月三十日付)。カギッ子の増加は、核家族化の進行と女性の就労意識の高まりが原因と考えられた。これを受けて市教委は放課後の留守家庭児童会を設置したが、これは後に学童保育に発展していく。カギッ子率は同四十三年には吉野小学校と鴨江小学校で二十八%を超えるなど増加した(昭和四十三年八月十九日付)が、昭和四十四年をピークに減少した。これについて市教委は「産業界の不況で、求人活動がやや鈍ったこともあるが、基本的には、母親たちが経済的豊かさや産業的役割より、本来の子供の養育、人間形成的な責任を重く見るようになったからではないか」と歓迎していた(昭和四十六年八月五日付)。なお、昭和四十五年、県西部児童相談所は触法少年の五十六%が共稼ぎ世帯であるとしていた(昭和四十五年十二月十日付)。