[子供会と児童会館]

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【子供会 市子供会世話人連合会】
 昭和三十五年、市社会課は市子供会世話人連合会と協力して市内の子供会結成運動を精力的に行っていた。当時、少年の非行年齢の低下が問題となっていたからである。「このような原因は子どもの遊びと生活に無関心すぎる社会にある」(『新編史料編六』 七社会 史料124)と市当局は考え、子供たちの生活―遊びを健全な方向に導き、世話してやる子供会を増やそうと計画し実行していった。
 昭和三十五年七月末、市内には九十一の子供会があったが、同じ人口規模の静岡市には二百カ所以上もあり、運営もうまくいっていた。そこで、静岡市を手本に十カ年計画で一年に二十子供会の結成を目指し、未組織の自治会やPTAに呼び掛け始めた(『静岡新聞』昭和三十五年四月二十八日付)。その結果、同年の夏休みに新たに十三子供会が誕生し、市全体で百六子供会、会員数一万六千人となった(『静岡新聞』昭和三十五年九月十五日付)。市子供会世話人連合会では指導者講習会、情報交換会、競技大会、映画会、クリスマス子供会、子ども芸能大会などを企画していた。市内各地の子供会では町内清掃や児童遊園地や神社の清掃、ごみと危険物の分類作業、小学校のプール建設資金を集めるための廃品回収、恵まれない子供たちのいる施設への訪問、定期的なレクリエーションなどがほぼ定番で行われていた。鴨江北子供会のように、世話人会が青少年犯罪についての講演会や討論会を子供会の保護者や役員に呼び掛けて実施することもあった(『静岡新聞』昭和三十六年三月十二日付)。また、前述のように子供会の世話人と子供たちが児童遊園地をはじめとした遊び場設置の運動や発言をしていった。
 
【児童会館】
 さらに、静岡市で実施されていたように子供会活動の中心施設として児童会館の設置が市当局や世話人会で議論され、昭和三十七年八月に待望の児童会館が完成した(『新編史料編六』 七社会 史料125)。元の市公会堂を増改築し、冷暖房完備で最新のプラネタリウムが設置された。鉄道模型の展示は子供たちに一番の人気であった。また、昭和四十一年のレーシングカーブームの際には、同館はレース場を設け、夏休みを挟んだ七、八月の入館者数は二万三千人ほどで、前年よりも五千人増加していた。賑わっていたのはレース場ばかりではなく学習室も大賑わいであった(『静岡新聞』昭和四十一年九月一日付)。
 また、同館には子供会活動を担当する職員二名がおり、市内の約二百グループの活動への支援を行っていた。しかし、世話人だけの指導でレクリエーション活動にのみ偏る例もあり、ゲームやキャンプ活動の指導などが出来る中学生・高校生を主体としたジュニア・リーダーが求められていた。そこで、昭和四十年に子供会リーダースクラブが結成され、四十五人ほどのクラブ員が活動し、昭和四十五年には、同館で各子供会の世話人や子供のリーダーを集めて子供会イン・リーダー交歓会を初めて開催した(『静岡新聞』昭和四十五年六月十八日付)。ところが、昭和四十七年にはクラブ員は三十九人に減少し、しかも常時活動しているのは十人前後になっていた。原因は中学生が高校受験近くになると活動を手控えたり、退会したりするケースが増えてきたことが考えられた。そこで、高校生の参加を呼び掛けていた(『静岡新聞』昭和四十七年五月一日付)。なお、昭和四十年代半ば、子供たちの夏休みのキャンプや野外活動・宿泊訓練は、各地の子供会だけでなく市内の小中学校も集団生活の訓練として実施することが多くなってきていた。昭和四十四年には西小や神久呂中は水窪町の西浦小に出掛けている。行き先は愛知県の鳳来寺山や東栄町の林間学校や袋井市可睡斎や住吉町の市立青少年の家などまちまちであった(『静岡新聞』昭和四十四年八月四日付)。これらの動きがその後の市野外活動センター設置につながっていく。