平成二十三年七月一日、浜松市は市制百年を迎えた。この時にあたり浜松医界の歴史と展望を考える時、その原点は明治初年の浜松県時代の事蹟にあろう。このことについて『浜松市医師会中央病院記念誌』(奥付によれば昭和四十九年六月十一日刊)の第三編「会員の論文と随想集」の中で、浜松市医師会理事美甘研一は、浜松医界を年代的に画期する事象を取り上げた第一番目に、明治の浜松医学校をいい、次いで大正の遠江医学会、昭和初期の谷口健康主宰の浜松集談会を挙げている。明治初年の浜松医学校と大正の遠江医学会については、既に『浜松市史』新編史料編二と『浜松市史』四(通史編)で言及したが、集談会については以下の記事において言及することにする。
【浜松病院】
浜松医界百年のマグマの発生を見るために、約言抄記するが、明治四年(一八七一)の浜松県発足後、同六年に会社病院が設立され、翌七年一月、浜松県令林厚徳の布達によって県立浜松病院が実現した。この病院には浜松医学校が付設されていた。
明治九年八月二十一日の静岡県との合併後、浜松病院に医学校教員として太田用成の門人で大学東校卒業生の虎岩武が着任する(明治十三年、静岡県立浜松医学校は県費削減を理由にあえなく廃校となる)。
浜松病院を設立した事を発端として、明治十年浜松病院医会を発足させ、さらに医生の教育機関を設けるに至った。この一連の連鎖反応が、「所謂漢医ノ陋習ヲ一掃シ以テ正実ノ医風ニ就カシメ」、欧米の新知識の獲得と医師たちによる共同討議と自己研鑚(けんさん)を標榜する学会を組織するという歴史的事実をもたらした。
【浜松方式】
それはあたかも天竜川の伏流水が遠州平野を潤すように、浜松の地表に顕在化した。これを改めて再認識させたのが、浜松医科大学の誘致運動であった。これの実現に至る過程には、昭和三十七年六月、浜松方式と呼ばれるオープンシステムの診療機能を持つ浜松市医師会中央病院の実現があり、さらにはこの組織を総括した上で、国立浜松医科大学の教育関連病院という性格をも併せ持った、昭和四十八年四月の県西部浜松医療センターの開院がある。
【国立浜松医科大学の開学】
昭和四十九年六月、国立浜松医科大学が開学され、昭和五十五年三月二十六日、第一回卒業式があった。その式典の祝辞として浜松市医師会長内田智康は、明治十三年の浜松医学校の廃校から百年という節目にあたって、浜松医科大学の卒業生を迎えた喜びと歴史的意義を述べたことを自記している(『浜松市医師会史』平成八年三月刊)。
右の『浜松市医師会史』の全巻に漲(みなぎ)る開業医等の共通認識は、明治十三年以来のマグマの再認識である。この歴史的認識が地域医療の実現の旗印であり、幾多の病院や組織を確立させるに至っている。このような観点からほぼ昭和三十四年頃から昭和四十九年直前頃までの期間、つまり、浜松医科大学誘致に収斂(しゅうれん)するまでを対象にして、浜松市域における医療機関の充実過程を見ることにする。次いでこの期間に百年のマグマを噴出させるべく活動した医師会における医師群像を垣間見ることにする。