[献血・預血の血液センター設立]

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【輸血】
 健康な人の血液やその成分を病人や負傷者の血管内に注入することを輸血と言うと解説されている。この延命措置はごく日常的になされている医療行為であるが、血液型・抗体の原理が発見される近代以前では安全なものではなかった。二十世紀初頭にABO式血液型が特定されて以後に輸血の安全性は高まった。日本では昭和五年(一九三〇)十一月十四日、浜口雄幸総理大臣が東京駅頭で愛国社員に狙撃され、重傷を負った時、輸血によって一命をとりとめたことがあった。これを契機に輸血に関する認識が深まり社会的に普及した。
 血液と病気に関わる日本社会に潜在するいわれのない通念は医療の知識と技術の進化と普及によって、その俗信部分は剥落していく。遺伝と伝染病との区別がつかない悲劇は、例えばハンセン病をもって天刑病とおとしめるなど、国家的な誤りが近代まで続いた。また、昭和天皇の最晩年に手術と輸血が報道された時、それがもはや現人神である玉体への不敬行為と指弾されない時代を迎えたことをいう論調も見えた。
 
【献血 買血 静岡県赤十字血液センター浜松出張所】
 医療技術の進展もあって、浜松市内の大病院においては手術に必要な新鮮な血液が慢性的に不足状態となっていた。昭和四十年四月二十九日付『静岡新聞』によれば、市内の「病院や診療所で使用する血液は国立浜松病院、日赤浜松病院、遠州病院、聖隷浜松病院など大口需要の三百本をはじめ、他の医療施設をふくめ年間に千本から千百本。このうち地元で間に合っているのは四百本くらいで、あとの六百本以上は他都市からの買い入れと手術時における一般の献血によってまかなわれている」という。買血依存は例えば東京・大阪・名古屋の商業血液銀行、ミドリ十字から購入するもので、その買血も黄色い血追放で入手は不安定状態である。そこで市役所民生部は日赤静岡支部血液銀行の浜松配給所の設立を企画し、市内鴨江町の市立病院を一部改造してこれに当てることにしたのである。他方では市内の事業所、学校、官公庁、自治会などに働き掛けて献血推進協力会の設立方針を明らかにしている。産業活動が活発になると市民生活の中で交通事故が多発する事態を招いていたからである。市内の交通事故負傷者に対するだけでも輸血は年間二百本から二百五十本(一本二百cc)要するという。この静岡県赤十字血液センター浜松出張所は昭和四十年六月七日に開設された。
 
【心臓外科 預血制度】
 他方、聖隷浜松病院では昭和三十四年、東京女子医大の榊原仟を聖隷病院顧問に迎えて心臓外科の診療が開始され、同三十七年三月には心臓外科を中心とする八診療科を備えた本館が完成し、同三十八年に中山耕作を病院長に迎え、四十年二月には交通事故の頭部外傷に対応する脳外科センターが設置された。心臓や脳の手術には多量の血液を必要としたが、この時点では赤十字血液センターが発足しておらず、輸血用血液は患者の関係者や自衛隊などの善意の献血では不足し、買血に依存していた。当時買血は黄色い血、汚れた血と言われ大きな社会的問題となっていた。そこで同四十年七月、聖隷浜松病院は労働者組織と連携した血液銀行の設置に着目した。遠州地方労働組合会議に加わる各職域に献血組織をつくり、これを糾合する血液センターを立ち上げた。「加入会員と家族を自分たちの愛の血で守ろう」というのが合い言葉である。献血は当座の急務に備えるものであるが、預血制度の趣旨は職域の労働者とその家族を対象にすること以上に、広く市民の不測の事態に備え相互扶助の精神を発揮させるというものであろう。たとえ患者個人として組織に属さない場合でも、患者が快復後に輸血分の血液を返すとか、あるいは手術前に預托するとか、また、患者の関係者が血液を提供するというような場合などもあろう。
 
【血液銀行】
 かくて同四十一年二月十一日、聖隷浜松病院内に血液銀行が発足した。病院内には専属の医師と職員が配置され「低圧吸引の採血装置や採った血液を急速冷却、殺菌する施設」が整備されており、この機能を持つ故に献血に依存する限界を越えて、預血という方策が提唱可能であったのである。遠州地区勤労者血液センターへの預血のための登録会員は十六事業所七千六百七人、四月までの預血者は五百九十五人あった。遠州地区勤労者血液センターに登録する企業体には国労浜松工場支部と県教組磐田支部からはじまって、県教組浜松・浜名・引佐・周智の各支部、北遠・引佐の二地区労、全逓浜松支部、日本楽器、日通浜松、浜松染色資材会社、遠州鉄道、本田技研が見えている(『静岡新聞』昭和四十一年二月十二日付、同四十一年五月二十日付)。
 右のように静岡県赤十字血液センター浜松出張所と聖隷浜松病院との二本立ての献血・預血の運動は、浜松地区の献血運動を盛り上げた。鍛冶町新川緑地公園での移動採血車による街頭献血が定期的に行われたり、中田島の団地自治会では町内自治会ぐるみで住民の血液型検査が実施され、住民の不測の事故に備え、緊急時に融通し合うため、血液型を記入する自治会名簿の作成などが行われた(同四十二年二月九日付『静岡新聞』)。
 他方、市内大病院での採血・輸血は行われてはいるが、各病院間の融通・交換、あるいは保存・供給の仕組みには弾力性が乏しかった。静岡県赤十字血液センター浜松出張所の活動は始まったものの、活動起点は静岡にあった。しかも「採血には日赤静岡血液センターにある採血車二台のうち、一台が一カ月のうち二十日前後は西部地方を訪れ、うち半分を同市内に振り向けている。採血車は採血した血液を静岡まで運び、静岡で検査、保存する関係で、静岡―浜松間を日帰りピストン運転をしている。このため運搬に要する時間と経費が無駄となる。保存血液は採血後十七日間が〝寿命〟で、うち四日間は検査にかかる関係で、この血液を効果的に使うには県西部に拠点を置き、ここを中心にした合理的な血液業務が望まれていた」(同四十四年八月二十七日付『静岡新聞』)。
 
【浜松赤十字血液センター】
 生命の尊厳を前提にすれば、この合理性は説得的であり、これを実現するために浜松市中野町に独立した機構を備えた浜松赤十字血液センターを開設するに至った(同四十四年十一月八日起工式、同四十五年五月一日開設)。
 右の事態が進行していることと軌を一にして、聖隷浜松病院に設置されていた血液銀行が閉鎖されることになった(同四十四年三月三十一日)。この設立当初に交わされていたという、静岡県赤十字血液センター浜松出張所の献血制度の充実に伴って、閉鎖するというのである。労働組合を背景にして預血という相互扶助の新機軸を編み出した革新性は、売血追放の一翼を担い、血液に対する認識を改めさせたのである。
 右にいう独立した機構を整えるということは、医師・薬剤師・検査技師・看護婦・事務職員が常駐し、血液の製造・供給、血液型判定などを実行できることであり、採血車・検診車・血液輸送車・配給車が備わっていることである。ただ、血液の製造とは輸血に関わる言葉である。輸血には全血輸血と成分輸血とがあり、前者には採血後七十二時間以内の新鮮血か保存血を使用するもので、後者は必要な成分のみを輸血するものである。血液を遠心分離機にかけ、赤血球・白血球・血漿(しょう)・血小板などの成分に分けた血液成分製剤を、治療目的に応じて必要な成分のみを輸血する。さらに血漿からは細かな製剤技術が進化している。血液の製造とは進展する血液学の医療技術を反映した表記である。
 ところで、その後の献血事情は好転し社会を満足させたかというと、否である。季節に左右され、経済の景況に浮沈し、献血促進の運動は新聞紙上で話題にならない時代はない。もっとも、献血運動をいかに組織化するか、状況には様々な局面の消長がある。定番は街頭、企業体、成人式などで呼び掛けられ、昭和四十七年度に一部の高校卒業式で献血が実践されて以後、社会に定着する可能性が生まれている。

図2-46 浜松赤十字血液センター