[労災病院誘致]

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【静岡労災病院 浜松労災病院】
 右で言及した『広報はままつ』(昭和三十八年二月二十日号)や『静岡新聞』(昭和三十八年七月五日付)などでは、以後、浜松市による誘致運動が開始されてより病院名は労災病院とか国立労災病院とか呼称されてきた。しかし、昭和四十二年四月の発足時は静岡労災病院と称された。十一の診療科目を擁し、病床数三百床を構えていた。その後の五十年代、六十年代には診療棟・病棟の増改築がなされ、また、診療科目も新たに加わり、平成七年時点では十八診療科を擁し、病床数も四百床を構えるようになった。なお、昭和六十年四月一日付けで浜松労災病院に改称された(『開院三十周年記念誌』平成十年三月一日、労働福祉事業団浜松労災病院刊)。ここでは以後、市民に親しまれた労災病院と表記することにする。
 『広報はままつ』(昭和三十八年一月二十一日発行、第二〇六号)によれば、労災病院の成立過程について次のように記している。
 
  三十五年から市、市議会、商工会議所、自治会連合会、遠州経営者協会、遠州地方労働会議(労働組合会議)、浜松労働基準協会など、市内の各団体が一丸となってすすめてきたものですが、労働省でもこの浜松市の熱意に動かされてついに三十八年度予算へ建設費の一部を計上、三十八年度から二か年ないし三か年計画で建設することにふみきりました。
 
 浜松市による誘致運動について、『静岡新聞』は、平山市長が昭和三十六年十二月十三日に労働省に実現運動を働き掛けることを予報し、その際に同月九日付けの静岡県知事齋藤寿夫名儀の同病院建設に賛同する副申書が添えられて提出されると記している(昭和三十六年十二月十日付)。
 県知事の同意書が添えられることの意味は、労災病院が「労災医療に関しては静岡全県を対象としている」(『開院三十周年記念誌』)からである。そして、労災病院の使命と特質については、「労災病院の性格は、労働省が所管する労働者災害補償保険の労働福祉事業の一部を担当し、勤労者の福祉の増進に寄与するため、労働災害、通勤災害による被害者の治療はもとより、リハビリテーション、さらには様々な職業性疾病の防止に努めること」(『浜松市医師会史』)と自己総括している。
 他方、『静岡新聞』紙上で見る限り、建設計画は難航する局面もあった。右の『広報はままつ』記事中には「市内の各団体」に一括されて特定名辞のない浜松市医師会を含めて、浜松市当局、労働団体、市民などが、開院に至るまでの間に表明した意思疎通について概略を記すことにする。
 浜松市が労災病院の誘致に至る動機は、浜松市が産業都市として急速に展開するに伴い、経済の高度成長から遅れた社会の側面を改善する点にあった。それは医療福祉社会の未成熟な側面に現れていた。昭和三十六年十二月十日付の『静岡新聞』には、次のような現状分析がある。
 
  浜松地方は人口百三十万人、二万事業場、三十万労働者を有する工業地帯であり、このため労働者の産業災害は年間一万二千人を数える有り様。一方同地方の医療施設は人口一万人当たり九・一床であり、全国平均の二七・七床をはるかに下回り、全国で最下位に近いほど。総合病院は遠州病院、日赤などがあるが、総合病院不足の地として知られ、さりとて四~五百床というような総合病院は今の自治体ではなかなか建設出来ないのがその財政事情となつている。
  しかも三方原用水事業、国鉄新幹線、東海道高速自動車国道、東海道バイパス道路の建設など、公共事業がこの地方で実現となると今後ますます労働者の災害は増加することが見込まれるのに、病院の方はこれに追いつかないでいる。
  そこで労災病院の建設を労働省へ運動することになつたものであり、県としても本県に労災病院がないのが、不自然であるので(全国には二十五労災病院と六建設中がある)浜松市に協力し、その実現をはかることになつた。
 
 労災病院建設に向けての行政側の意欲は大きかった。昭和三十六年十二月二十八日、市、市議会、商工会議所、遠州経営者協会、医師会などは協議会を開き、労働省の構想を説明し、建設用地や医師会との調整などについて話し合った。市医師会の一部では開業医圧迫を理由に異論も出ていたが、ベッド不足を補うことが労災病院建設誘致の大前提であるから、初めは楽観的に見られていた(同十二月二十九日付『静岡新聞』)。しかし、翌年の一月六日付の同新聞には、山本正浜松市医師会長の談話として「市の医療計画というのに医師会に一言の事前了解もなく、誘致運動をすすめたのは医師会を全く無視したやり方で納得出来ない」という意見に対して、市の厚生部長の談話では計画の具体化以前に「正式な話し合いの場がつくれなかった」ことを認めている。右の「医師会無視」とは、具体的には医師会が同市富塚町に建設中の中央病院の開業を待たず、労災病院建設に市や商工会議所、遠州経営者協会が奔走していることを指しており、「交渉決裂の場合は医師会側が市の学校医返上などをほのめかしている」と報じた(昭和三十七年三月一日付『静岡新聞』)。
 この医師会からの反発の内実はどこから生まれたのか。『浜松市医師会中央病院記念誌』に再録された浜松市医師会理事美甘研一の見解(「医師会マンスリー」、昭和三十七年五月)は「開業医の医療水準が低いことが我国医療をゆがめてきた根本原因なのだからこれを向上せしめようという吾々の努力に対し労災病院誘致という様なことで水をさすなというわけで、これは大義名分の立派に立つことだと私は思う」というものである。美甘研一は浜松に続いて各地に同種の病院が誕生すれば、我が国の医療制度に大変革が起きるという信念を披瀝(ひれき)している。医療法や健康保険制度にはオープン病院が想定されていないからであろう。
 新聞紙上の評言では医師会側のメンツが強調されているが、美甘研一の言には市民生活に密着する開業医自身の意識改革を伴うオープンシステムこそ開業医の水準を高めるという信念が読み取れる。行政側が主導する大病院誘致でもって地域医療の改善が図れるのか、という信念の底意が読み取れる。
 円満解決を望む市側は医師会側と調整を重ねてきたが、四月二十一日付『静岡新聞』の記事では、病院建設用地として同市富塚町に一万坪を内定し、労働省に手続きを始めようとしたとき、医師会側は建設中の中央病院に接近しており同病院の運営を脅かすという理由で反対し、市街地ではなく周辺部に移すように要求した。この医師会側の反対に対して、市自治会連合会は労災病院の誘致促進を決議し、遠州地方労働組合会議や市民からも建設促進の声が上がった。
 この時点で、日本医師会の武見会長の反対表明があった。この説得のために上京した平山市長との会談で、武見会長は労災病院が労災のみの患者を診察することを主張した。これに市長は反駁(はんばく)し、全自治会の建設賛成を武見会長が反対した場合、地元の医師会には悪影響が及ぶだろうと発言したという。
 
【労災病院の建設地】
 他方、労働省首脳部には、浜松の結論遅延を機に、厚生省も含めて医療制度の再検討の観点から、新規建設を抑制し、既存の労災病院の補修優先という意見も出ていた(昭和三十七年八月二日付『静岡新聞』)。
 そこで浜松市医師会は日本医師会の武見会長と労働省との中央折衝に一任することにし、新年度予算に建設費が計上されることを期待している。
 建設地や病院の診療内容について意見を表明していた浜松市医師会が一切を白紙に戻したけれども、労働省側の意図する医療改善案に重大な関心を寄せ、労災病院の市民病院化を警戒している(同年八月十七日付『静岡新聞』)。昭和三十八年三月十五日付『静岡新聞』では浜松市医師会が医師会中央病院に労災病院を併設し、医療法人組織を社団法人に改組して労災病院の運営も医師会に委託してもらい医療を協力し合うことが好ましい、という妥協案を表明している。
 他方、市当局はいくつかの建設地案のうち、最終的には将監町と神立町の両町にまたがる一万坪の地内に内定した。平山市長の談話からみると、医療施設の分布状況、交通事情、予算の問題、また、市の東部地区には医療施設が少ない、などの観点が考慮されたものである。用地の買収費は地元負担という条件であるため、大井川以西の事業場から寄付を募り、一億円を集めるというもので、当面は浜松市蒲農協から日歩二銭二厘で一億五百万円を借金し、地主に払ったという(昭和四十年二月十八日付『静岡新聞』)。
 開院を間近に控えた時点でも市内の医療状況はさほど変わらない。昭和四十二年一月二十五日付『静岡新聞』では、浜松労働基準監督署管内における昭和四十年、四十一年の労災事故(発生件数、死亡件数)について、四十年(三千百四十一件、十七件)、四十一年(三千百七十四件、三十八件)、四十二年一月二十四日現在で六十件が発生しているという。この事故のうち多発企業は建設関係(昭和四十一年、七百七十二件のうち十二件死亡)、金属関係(同年、三百六十九件のうち五件死亡)、機械関係(同年、三百三十三件のうち三人死亡)という。それ故に、労災病院の建設が浜松の産業発展に存在理由を示したことになろう。
 かくて昭和四十二年四月十二日、初めは静岡労災病院という名称で開院を迎えた。医師団は京都大学医学部附属病院から派遣された。この病院運営は労働省の外郭団体である労働福祉事業団が全国の労災病院と同様に運営するものであるから、富塚町にある医師会中央病院から離れていることもあり、先の浜松市医師会による委託運営案は払拭されるのである。
 
【労災病院の変容 女性労働者の増加】
 この病院の本来の特徴は労災事故者を対象にするものであるが、開院準備室の談話では、「労災者だけでなく広い面にわたって診察する予定」(同四十二年一月二十五日付『静岡新聞』)というように、市民病院化となる必然性があった。その始まりは女性労働者の増加に伴い、その疾病治療が端緒となり、産婦人科、小児科の診療科目の増設となる(昭和五十四年七月二十四日付『静岡新聞』)。さらに地域住民の要請に応えるためにも総合病院化は次の問題点となって浮上する。