経済の高度成長に伴って産業社会の負の側面が現れる。交通事故と労働災害が増えたことである。それらはおおむね外科的処置を要したが、身体の不調から起因する事故もあり、内科的処置も合わせ治療しなければならないこともある。これら職場における健康管理上の問題点が解決されるべく、新たな医療環境が必至となるのである。それを経ることによって職業人の職場復帰、社会復帰が促進されることになる。
社会的要請に応じるため各総合病院がこの施設の新設・増設を図っていることを報じた幾つかの例を次に挙げる。
【整形外科】
『浜松市医師会史』に収められた「浜松整形外科医会」には昭和三十年代前半までは市内の病院には独立した整形外科の外来はなく、同三十七年に浜松赤十字病院で多田実・加藤允によって診療開始があり、その後市内では、毎年幾つかの病院に整形外科医の赴任があり、医院の開業が続いた。
遠州病院では、昭和四十一年十月の病棟の新設を契機に同四十二年四月から陣容強化を図る方針であるという。浜松赤十字病院も同様に「リハビリ施設を置く計画」という。また、静岡労災病院の開院はこの分野の新段階を迎えたことになる。
【リハビリテーション】
昭和四十二年二月十八日付『静岡新聞』の記事では、リハビリテーション(社会復帰)が〝第三の医学〟として脚光を浴びてきたことを報じている。「このリハビリテーションは、医療と社会の中間にあって、患者を訓練して社会復帰、再就職の道を開こうとするもの」であり、「整形外科の一分野として普及し、浜松地方では総合病院が最近、病舎の増設を並行して、競って整備をはかっている」というものである。聖隷浜松病院では整形外科医一人、マッサージ師四人の陣容で入院・外来患者百二十人を治療している、と報じている。
『静岡新聞』の昭和四十五年四月二十五日付の記事では、聖隷浜松病院では五月一日から関節外科センターを開設することを記している。これは交通事故によって関節障害を起こし、手足が不自由となる人が増えたことによるもので、さらに、同年十月二十日付の記事では、リハビリテーション・センターが完成し、理学療法の諸施設を整え、頭部骨折などによる麻痺(まひ)、脳卒中後遺症の全・半身不随などを外科、脳外科、整形外科が総合的に診断し、ケースワーカーなどの助言で治療するという。
『浜松市医師会史』所収の「浜松整形外科医会」に見える記事以後のこれら医師の整形外科懇話会における研修会の実情は、新設された静岡労災病院長に近藤鋭矢が就任するや一新する。「近藤先生がご出席されるようになって、はじめて結論的なご指導が頂けるようになり」、さらに同五十一年の浜松医科大学整形外科学教室の新設を経て同五十五年に「市内の全総合病院に整形外科が完備された」と執筆担当者太田幸晴は記述している。つまり、浜松医界の画期を迎えたのである。ここに社会的要請に応えて整形外科における治療が質量ともに充実しつつあり、市民の社会復帰・再就職に資する条件を備えた地域医療の内実が窺(うかが)えることになろう。