[診療所の衰退]

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【診療所閉鎖】
 先に昭和三十八年二月二十日発行の『広報はままつ』(第二〇八号)の記事を引用して、この時点の医療環境について述べた。そこでは総合病院の大増築や一般開業医の増加などもあって市内の医療機関が充実しつつあることを記したのであるが、その反面、地域によっては市民生活に密着していた診療所が閉鎖される状況に至っていたことを記しておかねばならない。
 戦後まもなく無医地区対策として維持されていた神久呂村、河輪村、湖東村、新津村の診療所が浜松市と合併以後、浜松市管理下の診療所として運営されてきており、昭和三十四年十月の国民健康保険制度が施行されてからは、これが適用されてきた。また、昭和三十六年一月二十日発行の『広報はままつ』には、国民健康保険課が吉野町の婦人会館に出張診療所を開設し、月、水、金の九時半から四時まで出張診療を行うこと、医師は新津診療所から出張するので、その該当日は新津診療所は休診となることを報じている。このほかに住民の要望によって同三十七年四月一日に浜松市三幸町に国民健康保険適用による三方原診療所が新設されている。
 他方では、右の診療所のうち、湖東が昭和三十七年一月、新津が同三十九年十月、神久呂と河輪が同四十年十月に、それぞれ廃止されている。
 
【三方原診療所】
 この三方原診療所の運営の実情は、昭和四十三年十月十五日付『静岡新聞』によれば、医師、看護婦、事務員各一人計三人が市中心部から離れた三方原の広域地区(大原町、三幸町、豊岡町、東三方町など)の七百二十三世帯、三千二百人を対象に診察してきたが、受診者は三十八年の一日平均十五人、三十九年十二人、四十年十七人、四十一年十四人、四十二年十七人、四十三年九月末までで十九人という。
 ところが同診療所の医師が民間会社の医務室に転出することを希望したことから深刻な問題に直面することになった。同診療所が対象とする地域は市内の医療行政から見ても他の四地区(湖東・新津・神久呂・河輪)に比べ、「診療所の必要度が高いため、市では医師会、病院協会、県、大学など八方手を尽くして医師を捜しているが、暗い見通し」であると報じている。昭和四十三年十月二十九日付の『静岡新聞』では、市側は十月一日から市立病院の医師を毎週二回、出張診察に当たらせるという。
 しかし、実情は同四十四年七月十七日付『静岡新聞』によれば、市立病院も「医師のやりくりがつかず、その後民間医師に毎週月、木曜日の二日、午前十時から午後三時まで診療を委託していた」が、この医師も開業するため、「市では二十一日以降、一応休診」とし、住民の希望を容れ、せめてもの対策である「廃止の線は打ち出さず、医師捜しの努力を続けること」とする措置を取ったものらしい。
 右のように診療所が廃止あるいは休診に至った理由には、医療従事者の人件費が年々上昇することにより赤字経営となっていることが挙げられている。しかも専従の医師を確保することが困難であり、他方では地区の受診者数が減少しているからである。つまり交通の利便性が高まり、市中の大病院に患者が流れ、かつ、大病院の専門性に頼ることが多くなるという患者の大病院指向が指摘できるであろう。医師の側では高度な医療技術と知識を研修する機会を熱望して大病院に転職する、あるいは、高給で引き抜かれたり、開業したりする、などの事情があるのであろう。
 
【マタイ効果】
 右の診療所閉鎖の問題もまた、結果として地区の生活感情に即さず、科学社会学者ロバート・マートンのいう「マタイ効果」(The Matthew Effect)が医療社会において作用した事例であろうか(赤木昭夫『蘭学の時代』中公新書)。つまり新約聖書「マタイ伝」(12章13節、25章29節)にいう、誰でも持っている人はさらに与えられ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるという趣旨のごとく、大なるものは益々大になり、他は淘汰されるという効果がもたらされたことになる。
 なお、浜松医科大学名誉教授大木俊夫によれば、『O・E・D』ではマタイ原理(The Matthew Principle)も同意義であり、同じ主旨の内容が「マルコ伝」、「ルカ伝」に簡単に触れられているという。また、それには例文として一九八九年の「英国医学ジャーナル」からの文章が引用されていて、医師と患者との関係においてもマタイ効果が現れるという指摘があるという。