昭和三十五年六月八日付『静岡新聞』の記事によれば、医師会病院問題について浜松市当局は市立病院の拡充による医療センター計画案を検討しているので、医師会側の建設計画には原則的賛成の態度を示していた。市側の計画案の根底には伝染病と結核患者を収容している鴨江北町にある市立病院を拡充して総合病院にする構想があった。
昭和三十八年二月二十日発行の『広報はままつ』(第二〇八号)には、「医療の充実という問題については、市としても福祉都市建設の観点から大いに力を入れています」として、医師会中央病院の建設、浜松赤十字病院の改築、労災病院誘致を挙げている。
【オープンシステム】
右の医師会中央病院の一件を除いては、先に第二項 「昭和三十八年時点の医療環境」で言及したので参照されたい。ここでは「市民医療の革命、全国のモデル、中央病院」と規定した医師会中央病院の設立について行政側の記事として、『広報はままつ』を引用し、その後で『浜松市医師会史』に依拠して、開業医らによる医師会中央病院の設立運動が、「病診連携」とオープンシステムという浜松モデルを確立させたことを述べる。
昭和三十七年六月に浜松市富塚町御前谷に開院した浜松市医師会中央病院(七十八病床、初代院長山本正)は、市内二百二十軒の開業医で構成する浜松市医師会が建設し運営するものである。「いわば開業医の共同病院」というもので、開業医が入院を必要とする患者を入院させ、その開業医が主治医として継続して治療に当たるものである。その意味でこの運営をオープンシステムと言っている。診療科目は内科、外科、婦人科、泌尿器科、皮膚科である。
【谷口集談会 開業医の職業倫理 圭友会】
他方、戦後の浜松市医師会の開業医の研修機関としては、外科医の谷口健康が主宰した谷口集談会(抄読会)があり、これとは別に主として内科医を中心とした圭友会が昭和三十年一月に始まっている。これは初め平野多賀治が主唱した勉強会であり、戦後のドイツ医学から離れてアメリカ医学の導入における臨床医学の進歩を吸収する機会であった。その過程で医師会中央病院の設立へ向けた議論が生まれた。このメンバーの一人である渡邊登の発言によって、「当時のBeginn~Sektionまでということで入院患者を持ちながらopenというシステム」(『浜松市医師会史』座談会、その1)を模索していた。つまり開業医が患者の起始から病理解剖までを行う医療行為が可能な病院組織の設立を志向していたのである。この種の見解と発言は既出の『浜松市医師会中央病院記念誌』の竹之内弘・矢部晁作・神川文吉などの論文に見えるもので、患者の発病から転帰、すなわち病気の経過の行き着くところまでを一貫して診療するという開業医の職業倫理観を述べているのである。また、医師会中央病院を生んだ発想は開業医として日本の医療制度に対する反省から始まったもので、その発現の場所が圭友会という勉強会であった。このことは先には『浜松市医師会中央病院記念誌』に収録された座談会「すべりだしたオープン病院」の冒頭に、木俣邦夫浜松市医師会副会長の発言に見える。後には『浜松市医師会史』の座談会(その1)の中で大久保忠訓は、「勉強会から中央病院を作ることが出てきたわけですね」と総括した発言をしている。
【病診連携】
このオープンシステムというのは、右の『広報はままつ』でも言及されているが、これは後の県西部浜松医療センターへ連続継承される理念である。これについて室久敏三郎は『浜松市医師会史』の中で、「患者にとってのオープンということではなく、開業医師にとって、病院がオープンであるということ」(六六八頁)と説明し、この組織の使命を述べている。これは要するに病院と診療所の有機的な連携をいうもので、「病診連携」と当時の厚生省は約言している。先に労災病院誘致を主導する行政側に対して、医師会側の意向を代表して、美甘研一がオープンシステムこそ市民に密着した開業医の医療水準を向上させるもので、地域医療をレベルアップさせるものという信念を披瀝し、全国の先駆けとなることを自負したが、いまや国側が「病診連携」と標榜することをいかに総括できようか。