[県西部浜松医療センターに向かう必然性]

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【県西部浜松医療センター】
 「病診連携」とはいうものの、その実態についてみると、浜松市医師会が中央病院を管理運営するにあたり、直面する問題点が二つ内在していた。診療組織論の観点と健康保険制度の導入がもたらした問題点とである。これについては、『新編史料編六』 八医療 史料3「県西部浜松医療センターの開院」の解題・解説の部分で渡邊登医師が執筆した「医師会中央病院10年の歩み」(『浜松市医師会史』再録)に依拠して述べたもので参照願いたい。これを要約抄記すれば、「病診連携」の精神から、開業医は病院に入院させた患者の主治医でもあるが、他方、入院患者の緊急時に備える病院勤務医との関係において、いずれが主治医たるか、という問題である。
 初め病院に勤務する医師は病棟医と呼ばれ、後には病院医と改められた。前者では開業医の補助的役割と見なされ、その診療方向も不十分な連絡のまま進行し、看護婦への命令系統も混乱することがあった。さらに室久敏三郎の言に拠れば、院内主治医、院外主治医と改められる程に病院勤務の医師が重視されていくのであるが、これには開業医の身体的、経済的側面がしからしめるに至ったと見られる。
 すなわち、健康保険制度下において、開業医が医師会中央病院における非常勤医師としての診療時における診療報酬は、その所要時間の長さに見合うものか、という問題である。
 『浜松市医師会史』の中の座談会(その1)で、開業医としての診療と病院での診療を兼務するという日常の一端を、外科医矢部晁作は「自分のオフィスのオペのあと患者を置いて、病院に泊まりに来る。」と発言している。
 他方、開業医によっては中央病院に向ける親疎の差異がある。渡邊登は例えば内科と外科・婦人科との間に差異があることを述べている。つまり、内科開業医には病床はなく、外科・婦人科開業医には「自分のオフィス」に病床がある。従来、内科開業医から外科開業医に送られていた患者の大部分が中央病院に送られると、その時点から外科開業医が主治医となる。ところが、健康保険制度下の手術料は低価であることから、外科開業医の収入は圧迫され、内科開業医との関連が強かった外科開業医ほど、その「自分のオフィス」での手術例は減少する、と述べている。
 医師会中央病院の資金は開業医の拠出金を前提にしていた。『浜松市医師会中央病院記念誌』所収、「医師会マンスリー、昭和三十七年二月」には、眼科開業医の勝見次郎(藤枝静男)が「僕は医師会病院を作ることに賛成である。どうしても作る必要があると思っている。従って6000円(※注 月額)くらい出したって仕方がないと思っているし、(中略)医師会病院は開業医ジリ貧全滅を防ぐ最後の防波堤だと思うからである。」という。
 
【渡邊登の切言】
 右の記念誌に所収された坂本幹雄・竹之内弘・美甘研一・阿部正昌の論文には会員の経済的負担について言及がある。また、渡邊登は医学教育を論ずる者は、医療制度、医療経済を無視しては無意味であると切言している。
 ところで医師会中央病院が十年も経過すると、病院自体の診療科は専門化、細分化が進み、施設設備が高度化され、常勤の専門医の存在が必至となる。それ故に地域医療の要請に応えるために、「医師会中央病院を、実際に運営してみて、日進月歩の医療に対応していくには、経済的に何時迄も、医師会員の負担に依存するには限度がある」と、木俣邦夫医師会長(昭和四十二年四月~同四十八年三月在任)は述べている。すなわち、医療経済の問題に直面したのである。医師会は十年に及ぶ努力を水泡に帰させないために最善の方法を模索することになった。
 
【阿部正昌の洞察】
 右の記念誌には病院医の経歴を有し開業医となった阿部正昌が「浜松市医師会中央病院論…その理念と展望…」という長文の論文を載せている。その構成標題を要約すると、病院医について、病院医の医療業務について、病院の運営と経営について、病院の医学教育について、病院医と主治医会員とのコミュニケーションについて、などという実に医師会中央病院が直面する多難な問題点が取り上げられている。特に、この組織が発足時から抱え込んでいた問題点について、その経歴に基づく深い考察がある。医師会中央病院が県西部浜松医療センターに進展する必然性について述べている。ただし、オープンシステム病院を大前提にしている。