【県西部浜松医療センター】
市制施行六十周年記念事業の一環として、昭和四十六年一月から建設を進めてきた県西部浜松医療センターが完成して、昭和四十八年四月一日に開院することになったという『広報はままつ』特別臨時号が、昭和四十八年三月二十八日に発刊されている。これは既刊の『新編史料編六』 八医療 史料3で全文を掲載しているので参照されたい。それには医療センターの概要として、オープンシステムの精神を解説し、そのための機構や様々なことが記されている。そのうち、四月一日の時点で開設される診療科目(八科目)と、準備中の診療科目(九科目)の名称が列挙されている。病床数は一般病床三百五十八床と伝染病床八十二床である。もっとも診療科目について見ると、県西部浜松医療センターが昭和四十九年四月に開学予定の国立浜松医科大学の関連教育病院にするための整備計画として、精神科と救急部門が不足しているので新設診療科として設けることになる(昭和四十八年五月十七日付『静岡新聞』)が、救急部門については、市の夜間救急室(鴨江二丁目)が完成したためこれを外し、代わりに人工腎透析室と外科診察部門に皮膚科、甲状腺科を加えている(昭和五十年五月三十日付『静岡新聞』)。
先に見た浜松市医師会中央病院を総括したとき、オープンシステムの本質である「病診連携」の第一の課題が、両者の有機的な連携と両者の診療区分ということであり、開業医の生涯教育の場を確保することであった。
【浜松市医療公社】
一方、県西部浜松医療センターにおける財政基盤をめぐる管理運営については、『広報はままつ』の記事にあるように、初めは全面的に財団法人浜松市医療公社に委託することにしていた。医療公社は昭和四十七年十一月に市、市議会、医師会、自治会などの代表で結成されたものである(理事長・平山博三浜松市長)。これはセンターの収入はすべて市のセンター特別会計に組み込まれ、必要経費もすべて市の委託料で公社に支払われるという公設民営形式であった。
ところがセンター建設には国から十二億六千万円の起債を受けているため、国や県の指導によって、センターの管理運営には地方公営企業法の財務規程が適用されることになり、管理委託契約が変更されることになった。
財務規程が適用される契約によると、センターの業務は市が執行するものと、公社が執行する委託業務に分けられる。市は料金の徴収、備品や材料の購入、施設の維持管理などの経営面の業務の執行に当たる。公社は診療と研究の管理面を執行する。出納は市が責任を負い、企業の損益は市に帰属する。公社は市から活動に応じた報酬を受け、管理権が与えられるのみである(昭和四十八年二月十七日付『静岡新聞』)。
先に医師会中央病院の病院医の経歴から開業医に転じた阿部正昌の論文で見たように、国の医療法の下での矛盾を抱え込んだまま、開業医の熱意でこの病院が維持されてきたわけであるが、昭和四十六年三月に設立準備委員を務めた室久敏三郎は『浜松市医師会史』において、この時点での県西部浜松医療センターのあゆみを総括している。これに至る県西部浜松医療センターの概要を友成久徳が執筆している。すなわち、設立経緯として浜松市医療公社設立趣意書、設立経過年表を記録し、公設民営による財団法人浜松市医療公社が運営する機能としては、総合病院、成人病検診センター、救命救急センター、法定伝染病隔離病舎、医師の生涯教育を挙げている。また、室久敏三郎は開業医側の不断の連携による「病診連携」を生かしてゆくためには、協同指導の医師数を増加させることであるという。
ちなみに渡邊登の発言には、オープンシステム病院の勤務医は専門医が望まれるし、入院診療には専門医のグループ診療が必要であり、その中に開業医が参画することが望ましいという。しかも、開業医にとっては「入院中の診療権はそれまでの主治医権と別けて考えるのが適当」(『浜松市医師会中央病院記念誌』稲留研三との対談、昭和四十七年十一月十三日)であると発言し、勤務医の自立性を重要視している。さらに開業医の役割を特定の疾患を対象とすること以上に患者という人間を対象とし、その健康管理をも職分とする専門医としての家庭医の実現を、現今の医療制度の中に位置付け、社会的地位を確立させることを強調している。他方、その勤務医が将来開業するに当たっての道標となるような地域の開業医の生き方を示唆している。