[詩誌の消長と詩人たち]

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 最初に、『浜松市史』四において取り上げた三人の詩人、後藤一夫・菅沼五十一・小池鈴江の昭和三十四年(一九五九)以降の活動について見てゆきたい。
 
【後藤一夫 『浜松詩人』】
 まず後藤一夫である。年譜(浜松文芸館作成、「詩人三人展」、平成二年六月)によると、活動として取り上げるべきは、詩誌『浜松詩人』の創刊である。創刊号は孔版でB5判、表紙を含めて十二頁(目次は表紙にある)。裏表紙の奥付に昭和三十四年十月五日発行とあり、同人十六名の名前と住所が記されている。編集人は記されておらず「仮事務所 浜松市高林町31 浜松詩人クラブ」とだけある(編集人として後藤一夫と小池鈴江の名が記されるようになるのは9号からである)。〔鈴江〕の署名のある後記に「いい作品をほしいな。/そしたら皆んなが集まるだろう。/そして、結びついた輪はふくれ上るだろう。/輪の中から『何かが』産まれる。/後藤一夫氏は、その心棒になっても倒れないでガッチリしている人だ、(後略)」とあって、後藤が同人の中心であったことが分かる。創刊号には、梶野満、小池鈴江、伊藤和嘉男、米田一夫、石川耕生、塩野義子、夏目ふみ、後藤一夫の作品がある。後藤は「EGO」と題して、「ろうそく 1」「ろうそく 2」「ろうそく 3」という三つの短い詩を寄せている。
 
     ろうそく 1
 火は上をむく 髪をさかだてて
 肩にかかる闇のおもみにたえながら
  ひとり
 深くかかとにさした太い針の上に
 対話のない「無」の
 白い日本の裸身をまつる EGOの火
 

図2-47 『浜松詩人』創刊号

 この詩誌の特記すべき事項として創刊一周年を記念しての、詩人金子光晴の招待がある。昭和三十五年九月二十五日のことで、この日金子は午後、細倉常夫(浜松詩人会員)の詩集『詩劇随伴者晏登仁雄』の出版記念会に参加、テーブルスピーチをやり、夜は座談会に出席。「地方文化の確立」の問題について語っている。
 後藤は翌年三月、詩集『終章』を刊行するが、金子はこの詩集に序文を寄せている。その中に次のような言葉がある(序文の依頼は、二人が会う前であったらしい)。
 
  後藤一夫君の「終章」をよんだ。後藤君は未知の人だが、はじめてよんだその作品には、旧知を感じた。この時代のある年代の人の共通な自我と、それをめぐる様相が、かなりはっきりとあらわされていたからであらう。(中略)
  世評と、俗流に心をかけず、第一義に精進されんことを祈る。
 
詩集は、「霧氏のノート」「牙氏のノート」「黄氏のノート」の三部に分かれ(目次は巻末にある)、各部は幾つかの詩(題名はない)で構成されている。
 後藤一夫のその後について前記年譜により主な事柄を見ておく。詩集等としては『神話』(昭和三十八年)、童謡集『海のイカリのゴン助』(同四十五年)、『圭子詩抄』(同五十一年)、少年詩集『水たまり』(同五十二年)、童謡集『ころんだとき』(同五十五年)が刊行され、同五十六年に『後藤一夫全詩集』、同五十七年に『後藤一夫全詩謡集』が刊行された。同四十八年には評論集『詩的美論・後藤一夫論集』が刊行される。これ以後も歌曲集『新日本の郷愁』(同五十八年)、詩集『瓦雞』(同五十九年)、詩集『くの字夜話』(同六十年)、詩集『茶茶日記』(平成元年)、詩謡集『落ちこぼれの唄』(同年)を刊行。平成二年には、時代小説集『乱世忍びの流れ唄』というものまで出している。まことに驚嘆に値するエネルギッシュな活動ぶりであった。この間、昭和四十五年に教員を退職、同五十九年度には浜松ユネスコ協会谷口賞を受賞。平成十一年一月十五日死去。享年八十六。若い頃の一時期を除いて、ほとんど浜松を離れることなく、詩人として当地に大きな足跡を残した。
 なお、『浜松詩人』は浜松市立図書館に70(同四十五年十一月十五日発行)までが保存されている(欠号は15・17・28・30~39・41・43~46)がその後については不明である。
 
【菅沼五十一 『麒麟』】
 次に菅沼五十一について見る。年譜(浜松文芸館作成、「詩人三人展」、平成二年六月)によれば、昭和三十八年のところに、同人誌『麒麟』主宰、『遠州文学』(第二次)創刊とある。前者の創刊はこの年の八月。これは同人詩誌で発行人が菅沼、編集人は埋田昇二。このほか同人として石川和民、小貫勇作、田中万起子、中西淑子、那須田浩、浜満の名があり、後、高仲陽生ほかが参加した。創刊号に、刊行のいきさつ等は記されていないが、埋田の署名のある後記に、次のようにある。

図2-48 『麒麟』創刊号

 
  麒麟は、中国における想像上の霊獣。赤目五蹄一角を有し、生物を食わず生草を踏まず、聖人が天子の位に即けばあらわれでるという。麒麟の会員諸氏の詩的想像力がいっせいに天地を馳けまわる日を今後に期待したい。
 
 創刊号に菅沼は散文詩「漂う」を載せ、以下5号まで毎号詩を寄せているが、6号以下に作品は見えない。同誌は11号(昭和四十二年十二月二十五日発行)で終刊となった。
 
【『遠州文学』】

図2-49 『遠州文学』創刊号

 後者の創刊は昭和三十八年一月。奥付を見ると編集人滝茂、発行人菅沼五十一となっている。表紙と目次を除いて五十四頁。目次が、詩・小説・随筆の三つのジャンルに分かれていて、これは総合文芸誌と見るべきだが、都合上ここで取り上げる。同人欄には、滝・菅沼のほか、岡本広司・内山つねを・稲勝正弘・埋田昇二・平山喜好・河合茂・村越一哲ら十九人の名前が並んでいる。編集後記によれば、創刊には稲勝正弘が大きく関わっていたこと、また、昭和二十七年に創刊された同人誌『麦』を念頭に置いていたことが知られる。『麦』については、『浜松市史』四で取り上げた。浜松市立中央図書館には一(昭和二十七年一月刊)~五号(昭和三十二年七月刊)が残されているが、数年で廃刊となったものと思われる。滝茂の編集後記には「この『遠州文学』は決して潰すようなことはしまいと、私はひとりで意気込んでいる」とある。この創刊号には、巻頭に藤枝静男の「メッキ」と題する小文が掲げられ、藤枝の同人誌への思いと小説家としての姿勢が述べられていて興味深い。菅沼自身は、「無間の山」と題する詩を一編寄せている。『遠州文学』のその後であるが、第二号以下は浜松市立中央図書館をはじめ、どこにも残っていない。先に引いた滝茂の後記のことばにもかかわらず、雑誌は創刊号のみで終わったとみられる。
 菅沼五十一のその後について、前記年譜によって主なところを見てゆく。詩集刊行は二冊。一冊は『霧の森』。昭和五十年四月、冬至書房刊。A5判、八十七頁(目次・解説等を含む)。詩十七編を収める。十一頁に及ぶ解説は後藤一夫が執筆。巻末に年譜が添えられている。詩集の二冊目は、『菅沼五十一詩集』。平成元年十一月、近文社刊。B6判。四十二頁(目次・あとがきを含む)。詩十八編を収める。詩集以外に『遠州文学散歩』(昭和四十七年、平成二年復刻増補版)、『遠江・駿河の民話』(昭和四十八年)、『郷土のデモクラシー文学管見』(昭和六十三年)の三著がある。
 その他の文学に関わる仕事としては、詩誌『饗』と文芸誌『未遂』、『独立文学』の創刊がある。『饗』の創刊号の発行は昭和四十五年十月。菅沼ほか五名の作品を収める。静岡県立中央図書館には第三十四号(平成元年十一月、第九号は欠)までが保存されている。菅沼を編集兼発行人とし、浜松在住の同人による総合文芸誌『未遂』の創刊は昭和五十二年五月。同誌については、第三章第九節第一項において詳しく触れる。
 
【『独立文学』】
 『独立文学』の創刊は、昭和五十六年六月。菅沼は、編集同人として参加している。この雑誌は静岡県全県を基盤とする総合誌であるので、当市史としては簡単に触れるにとどめる。同誌は昭和十三年八月の、菅沼も対象者の一人であった、いわゆる人民戦線事件と呼ばれる思想弾圧事件の関係者によって創刊されたもので、そのいきさつと背景については、創刊号巻末の「独立文学」発刊趣意書に記されている。そこには「人間・文学の自立とは何か、政治と文学とのかかわりはどうあるべきか」という言葉が見え、かつてのプロレタリア文学の流れをひく文芸雑誌であることがうかがわれる。菅沼は、創刊号に「遠州の農民文学運動㈠―同人誌「農民小学校」を中心に―」を載せ、これは四回にわたって連載された(創刊号・二・三・五号)。同誌は第九号(昭和六十一年九月)をもって終刊となったと見られる。
 以上見てきたように、菅沼は、詩人・文学者として多くの実績を残したが、他方浜松読書文化協力会会長、浜松ユネスコ協会会長を歴任するなど、幅広い文化人として浜松市に貢献するところが大であった。昭和五十五年浜松市市勢功労者として表彰され、また平成元年度には浜松ユネスコ協会谷口賞を受賞している。平成七年八月三十日死去。享年八十三であった。
 
【小池鈴江 『副葬』】
 続いて小池鈴江である。年譜(浜松文芸館作成、「詩人三人展」、平成二年六月)に見える、この期の小池の活動として注目すべきは、まず昭和三十四年十月に創刊された同人詩誌『浜松詩人』への参加である。同誌と小池とは極めて深い関わりがあり、それについては後藤一夫のところで触れた。小池は創刊号に、詩「紫の着物」を寄せている。この詩は三連から成るが、後に小池は第三連をカットした形で第三詩集『副葬』に収めた。同詩集の刊行は昭和四十四年。B6判、序文・あとがき・目次(巻末)等を含めて八十四頁。序文は田中冬二。表紙の題字は串田孫一。田中は序文の末尾を次のように締めくくっている。
 
  「副葬」によって小池さんのレーゾンデートルは確立されたと称してよいと思う。私は限りなきよろこびを覚える。/浜松の人。小池さんこそ浜松の人だ。
 

図2-50 『副葬』

 この集は、三十五編を収め、「重い風呂敷」「副葬」「茶畑の土」の三章に分かれている。前記「紫の着物」は「副葬」中の一編である。一行詩『蟬の標本』の刊行は昭和四十六年四月。詩集とはあるが、実はこの集は自由律の句集である。小池と自由律俳句との関わりは、内田六郎主宰の「松の会」との関わりでもあって、戦前に始まっており、その様子は「あとがき」に詳しい。小池にとって自由律俳句は、詩人の余技といったものではなく、極めて重要な位置を占めていたことが分かる。ただし、小池はこの集を、なぜか自分の詩集の数の中には入れていない。小池鈴江・通信『風紋』1の刊行は昭和四十八年六月。表紙を含めて二十四頁。小池の詩五編と小説「髪」一編を収める。小説「髪」は極めて自伝的内容で、私小説と言ってよく、前年県芸術祭に応募し芸術祭賞を受賞している。第四詩集 詩集『続・出さない手紙』の刊行は昭和五十五年十月。口絵、序にかえて、目次、後記を含めて九十二頁。1 寝言、2 笑声の河の二章に分かれ三十七編を収める。この集には冒頭に「序にかえて」として、小池の師事した丸山薫(昭和四十九年十月二十一日死去)の文章が掲載されている。
 小池は詩人として確かな足跡を残す傍ら、浜松市が発行する『浜松市民文芸』、『労苑』の詩部門の選者を後藤一夫や菅沼五十一と共に務めた。昭和五十六年度には、浜松ユネスコ協会谷口賞を受賞。平成九年八月十三日死去。享年八十七であった。
 以上、戦後の浜松詩壇に、確かな足跡を残した詩人として、『浜松市史』四に取り上げた三人(後藤一夫、菅沼五十一、小池鈴江)の活動について見てきた。
 
【埋田昇二 『螺』】
 以下、新しく登場した詩人として埋田昇二の活動について見ておきたい。埋田は浜松在住の詩人だが、この地方のみならず静岡県の全県的(あるいは全国的)に注目すべき活動を示してきた詩人の一人である。年譜(新・日本現代詩文庫37『埋田昇二詩集』巻末)によれば、埋田が詩を書き始めたのは名古屋大学三年(二十二歳、昭和三十年)の時で、「詩らしいものを書き始めた。初めは、中原中也、立原道造の叙情詩に、やがて金子光晴の文学的抵抗や、「荒地」派の詩人にふれて、現代詩の世界に入っていった。」とある。昭和三十七年のところに「嶋岡晨の呼びかけによる詩誌『蘭』に参加。詩作品「名前」発表。」とあるが、この詩誌の詳細は分からない。翌三十八年一月「個人詩誌『螺』創刊、詩「光と闇の証し」発表。」とある。『螺』は静岡県立中央図書館に創刊号と2号が、浜松市立中央図書館には2号が所蔵されている。創刊号を見る。A5判(2号はひとまわり大きい)、表紙はごく薄い紫色、一頁目が扉でそこに横書きで「光と闇の証し」とある。二~八頁にかけて、一行二十字、全九十六行の長詩一編を収めている。創刊号に収められているのはこの詩一編のみ(この作品は同じタイトルで、翌三十九年出版した第一詩集『魚のいない海』に収められている)。後記には次のようにある。
 
  ぼくは少年のころから一人で遊ぶことに慣れてきた。この小誌はそのぼくのささやかな精神の独白である。ちいさな螺の穀(ママ)のなかにもれてくるかすかな光をすかして、ぼくの位置をたしかめる作業が、外界のかたくなな視線からぼくの生命を解放することにつながることをぼくはひそかに夢見ている。ちいさな螺の呟きが法螺貝の響きにも変る日のことを。
 
これは、詩誌発行の意図を述べると同時に埋田の詩作の姿勢を示している。末尾の一文には、詩人としての将来への大きな夢が込められていよう。詩名の「螺」は巻貝のことで、おそらく「ら」と読ませるものと思われ、ホラを吹くのホラ貝を意識したユーモアを込めた命名のようである。埋田は後に詩人として貝の音を高らかに響き渡らせることになる。2号の発行は三十八年の六月。「花について」「生まれることのなかつた子への悲歌」の二つの詩が収められている。実体験を踏まえていると思われる後者の哀切感は深い。共に詩集『魚のいない海』に収められている(ただし、前者は「花について2」として)。個人詩誌『螺』は以上の二冊で終わったと見られる。
 詩誌『麒麟』が、主宰菅沼五十一、編集人埋田、ほかに同人六名で創刊されたのは『螺』創刊の昭和三十八年八月である。この詩誌については菅沼五十一のところで取り上げてある。創刊号に埋田は詩「帰る」を寄せている。同誌が11号(昭和四十二年十二月発行)をもって終刊となったことは既に記した。
 
【『魚のいない海』】
 第一詩集『魚のいない海』(昭和三十九年三月、詩学社刊)は「花について」「魚のいない海」「光と闇の証し」の三章に分かれ二十三編を収めている。この一冊は相当難解な世界であり、『静岡県と作家たち』(平成八年、静岡新聞社刊)の埋田の項(小川アンナの執筆か)では、この詩集に関連して次のように評している。
 
  初期の埋田の詩は、根底に時代の危機意識を深く孕(はら)む緊張した言葉の空間を作ろうとしていた。第一詩集『魚のいない海』(昭和39)の硬質な抒情は詩人嵯峨信之に注目され(後略)
 
嵯峨信之については、埋田は前記年譜昭和三十九年のところで、「嵯峨信之詩集『愛と死の数え唄』を座右の書として愛読。生涯、密かに〝師〟と仰ぐ。」と記している。嵯峨の詩集は昭和三十二年、詩学社から刊行されており、埋田は第一詩集の刊行に当たって師と同じ出版社を選んだわけで、両者の親密な関係がうかがわれる。埋田の第二詩集『花の形態』(昭和五十四年十二月)も詩学社からの発行である。
 さて、それ以後、平成十七年まで約四十年間の埋田の活動については前記年譜に詳しい。埋田には詩人としての活動のほか、作詞家として、また社会活動家としての活動もあり、まことに幅広く多彩であるが、それら全てにわたって本書に記すことは不可能である。以下、詩人としての活動を取り上げて簡略に記すにとどめる。
 まず、詩集としては第一詩集『魚のいない海』に続いて次の七冊が刊行されている。
 
  ・『花の形態』(昭和五十四年十一月、詩学社刊、第十二回東海現代詩人賞受賞)
  ・『富嶽百景』(昭和六十一年十一月、思潮社刊、第二十七回中日詩賞受賞)
  ・『水割りの処方箋』(平成三年十二月、思潮社刊)
  ・『風切り羽』(平成九年十月、思潮社刊)
  ・『座敷童子』(平成九年十月、思潮社刊)
  ・『樹海彷徨』(平成十六年九月、思潮社刊)
  ・『西行さんのようには』(平成十七年六月、鹿の会刊)
 
 このほか、前述のように平成十八年五月土曜美術社出版販売から、新・日本現代詩文庫37として『埋田昇二詩集』が出ており、全ての詩集の作品あるいは抜粋と、エッセイが収められていて、埋田の全体像を知るのに便利である。エッセイ集としては『詩と歌と平和と 「ヒロシマ」が視えてきた』(平成十三年九月、かもがわ出版刊)、『修辞と転位』(平成二十年十一月、土曜美術社出版販売刊)の二冊が刊行されている。
 
【『呪』 『鹿』】
 この間の注目すべき活動としては二つの詩誌の発行がある。一つは、埋田の主宰・編集による詩誌『呪』で、昭和四十三年十二月の創刊である。創刊時の同人は、埋田のほか那須田浩、斎藤辰治、村松満、田中万起子、堀井盈子、木下豈子。九号(昭和五十一年九月)で終刊となる。もう一つは、昭和五十三年七月の同じく埋田の主宰編集による詩誌『鹿』の創刊である(創刊号から七号まで『馬』、八号から『鹿』と改題)。創刊時の同人は埋田のほか後藤一夫、小長谷静夫、安井義典、なかむらみちこ、石割忠夫、高石貴の七名。『鹿』は、平成二十三年五月第百二十三号が刊行され、平成二十六年時点でも続刊中である。なお、埋田には詩作のほかに合唱組曲の作詞方面での業績があることを付け加えておく。
 埋田は、静岡県詩人会会長を二度(昭和六十二年~六十三年、平成五年~八年)務め、平成四年度には静岡県文化奨励賞を受賞。また、『浜松市民文芸』の詩部門の選者(昭和四十八年度~五十九年度、平成十二年度~)と静岡県芸術祭『県民文芸』詩部門の選者(昭和五十七年度~六十一年度)を務めている。

図2-51 『呪』創刊号


図2-52 『鹿』8号