図2-57 『定本濱人句集』(標題紙)
この期の原田濱人について、まず記すべきは『定本濱人句集』(以下『定本』)の刊行である。濱人には既に『濱人句集』(昭和十八年、交蘭社刊)、『巌滴』(昭和二十五年、冨山房刊)の二句集があるが、大橋葉蘭を会長として、定本濱人句集刊行会が立ち上げられたのは昭和三十七年八月のことである。『定本』の完成は、昭和三十八年一月。濱人の昭和三十六年末までの作品(藤田黄雲は、濱人が生涯に作った句は一万句を越えるであろうと記している。)の中から、濱人自身によって二千七十三句が選ばれ、新年と四季の句に分類され、それに「連作篇」が添えられた。『定本』には自序があるが、その大部分は、第一句集『濱人句集』の自序からの引用である。句観にいささかの変化もないことの表明と思われる。『濱人句集』の自序で、濱人は「物心一如」を唱え、それを「作者と物象とが紙一枚の隙もなく渾然一体となつた刹那に出発し、そこから自然に流れ出る正しい言葉正しい音律を以て表現せられたる作品にして初めて芸術といふ名に値する俳句である」と説明している。「物心一如」は濱人の生涯変わらぬ俳句理念であった。『定本』には阿波野青畝と加藤楸邨が「あとがき」を寄せている。青畝は、濱人の大和郡山中学の教員時代の教え子であり、楸邨は、濱人の子息原田喬の所属していた俳誌『寒雷』の主宰者である。なお、巻末の「著者の言葉」に、武者小路実篤が絵を画いてくれたとあるが、これは植物の葉(何の葉か判別しがたい)の絵で、本のケースに使われている。
【『みづうみ』 大橋葉蘭】
その後の濱人であるが、昭和四十年一月『みづうみ』三百号記念号を刊行。昭和四十三年十月、大橋葉蘭を後継者として主宰の地位を譲り、昭和四十七年八月四日に死去。享年八十八。『みづうみ』はその後、主宰が鈴木保彦、大城如舟と受け継がれ、平成二十三年時点での主宰者は五代目の笹瀬節子である。同誌は、濱人の唱えた「物心一如」を標語として続いており、平成二十三年七月現在第八百五十八号を数えている。
【『海坂』 百合山羽公 相生垣瓜人】
もう一つの郷土の有力句誌『海坂(うなさか)』の、昭和三十四年四月以降の活動を見てゆく。『浜松市史』四で見た通り、同誌は昭和二十一年七月に創刊され(創刊時は『あやめ』、昭和二十五年一月号から『海坂』)、百合山羽公・相生垣瓜人という二人の有力な俳人を指導者とし、その二人をそのまま主宰にいただくという珍しい体制で発展してきた。先に「郷土の」句誌と記したように、『海坂』の会員は圧倒的に浜松地域在住者が多いようだが、発行所は静岡など浜松以外の地に置かれている期間も長かった(平成二十三年時点での発行所は掛川市)。
【『寒雁』 『明治草』】
図2-58 『寒雁』
図2-59 『明治草』(箱)
この間の同誌の活動の歴史を知る上に最も便利なのは、『海坂』60周年記念特別号(平成十八年一月号)所載の「海坂創刊六十年の歩み」(編集部編)である。これによって羽公・瓜人二人の主宰の活動の跡を見る。双璧という言葉があるが、二人はまさにその言葉通り共に卓越した俳人として見事な俳句活動を展開している。まず、瓜人が昭和三十六年度の馬醉木賞を受賞。続いて羽公が昭和三十八年度の同賞を受賞する。羽公の第三句集『寒雁』の刊行は昭和四十八年十一月、瓜人の第二句集『明治草』の刊行は昭和五十年十二月である。羽公の蛇笏賞(第八回)受賞が昭和四十九年六月、瓜人の同賞(第十回)受賞は昭和五十一年六月であった。俳句界の最高の賞とも言うべき賞を、羽公と瓜人はともに受賞したわけである。羽公の第四句集『楽土』の刊行は昭和六十年一月。この年の二月に瓜人が死去。享年八十六。翌昭和六十一年、瓜人の遺句集『負暄』が刊行される。羽公の亡くなったのは平成三年十月、享年八十七。遺句集『楽土以後』の刊行は平成五年十月であった。
『海坂』は創刊百号(昭和二十九年)以後、百号ごとに記念号を出しており、平成十六年九月に七百号を刊行。平成十八年一月には前記60周年記念特別号がまとめられている。主宰者は、羽公と瓜人亡き後、和田祥子、平賀扶人と変わり、平成二十四年時点での主宰は、鈴木裕之・久留米脩二の二人である。同誌は平成二十四年十一月通巻第八百号を刊行した。