藤枝静男の文壇登場と、初期の文学活動については『浜松市史』四に記した。その後の藤枝の活動を見る。まず取り上げるべきは、昭和三十六年の「凶徒津田三蔵」であろう。これは昭和三十六年の『群像』二月号に発表され、後、同年五月刊行の作品集『凶徒津田三蔵』に収められた。藤枝の作品は、多く自己と周辺を描いたいわゆる私小説だが、これは明治二十四年来日したロシア皇太子を、巡査津田三蔵が襲ったいわゆる大津事件に取材している。しかし、自分と無関係な人物を客観的に描くのではなく、多分に主人公に自己を投影させつつ自己の内面を追求するという傾向のあるものであった。この作品について、藤枝は、小川国夫との対談(昭和五十二年一月、『週刊読書人』)の中で次のように述べている。
津田三蔵というのは実につまらない人間だ、自分以下だと思った。自分以下を書くのはつまらないからね。だから、ほうっておいたんです。そしてしばらくしたら同感する部分がうんと出て来て、自分というものと一緒なようになってきた。
だから、実際あったことは全部本当のことを書いたけれども、その時の事実の配列というようなことはね、どうしても自分を表すためのような具合になった。
藤枝は十一年後の昭和四十七年、もう一度同じ大津事件に取材して「愛国者たち」を書く(『群像』八月号)。作品の初めの方で、「この事件をめぐって愛国者の名を後世に残したものは、下手人の三蔵と、責任者の明治天皇と、ロシヤの怒りを解こうとして自殺した畠山勇子と、裁判を指導して勝利をおさめた大審院長児島惟謙の四人である。」とし、明治天皇を除いた三人について書き一つの作品としたものであった。藤枝の大津事件に寄せる関心には並々ならぬものがあったようである。藤枝は小説「愛国者たち」を含む創作集『愛国者たち』(昭和四十八年十一月、講談社刊)により、昭和四十九年第二回平林たい子賞を受賞している。
図2-60 『凶徒津田三蔵』
【「空気頭」】
昭和四十二年には、『群像』八月号に「空気頭」を発表。これは、作者が自身の生活に取材して書いている点で、私小説と見なし得る作品であるが、かなり大胆な実験的試みがなされて注目された。平野謙は当時の文芸時評(『毎日新聞』学芸欄 昭和四十二年七月二十七日・二十八日付)でおおよそ以下のように解説している。作品は二部に分かれていて、第一部には結核に感染した妻をはじめとする人々の「闘病を中心とした一家の歴史が、便宜的な言葉でいえば、整然と志賀直哉的リアリズムで描かれて」いる。「『汚穢な情欲』を象徴的に描いた」のが第二部であって、「これは志賀直哉的リアリズムの限界を、作者が実作上実験したことであって、作者の作品歴で特記すべきことにちがいない」とし、「この第二部の汚穢にまみれた自己を、第一部の外見上の自己と並存させ、そこに従来の私小説をこえたリアリティーを作者は確保しようとした」。「空気頭」は、他の三作品と共に、昭和四十二年十月に刊行された創作集『空気頭』に収められ、この集は昭和四十二年度芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
【『藤枝静男著作集』】
昭和四十六年十月『或る年の冬 或る年の夏』を刊行。同五十一年五月『田紳有楽』を刊行。これは第十二回谷崎潤一郎賞を受賞。昭和五十四年二月創作集『悲しいだけ』を刊行。これは、第三十二回野間文芸賞を受賞した。『藤枝静男著作集』(全六巻・講談社)の刊行は昭和五十一年七月に始まり、翌年五月に完結している。平成五年四月十六日死去。享年八十五。故郷藤枝の岳叟寺に埋葬された。この年浜松文芸館では藤枝静男展が開催された。
なお、藤枝は静岡県文化奨励賞(昭和四十二年)、中日文化賞(同五十三年)を受賞しており、昭和五十三年には浜松市市勢功労者として表彰を受けている。
【平山喜好】
平山喜好については、既に『浜松市史』四において、国鉄浜松工場文芸部機関誌『浜工文学』での活動と詩作活動について見た。その中で彼が詩集『黒い火』(昭和三十二年六月、詩旗社刊)の後記に「これからも、詩から離れることはできないとは思うが、この詩集の出版を機会にして、これからは、小説を書くことの方に、より多くの情熱を傾けたいと思っている。」と記していることを紹介した。
【『浜工文学』】
平山が、小説『銀杏の花』(現代社刊)を自費出版したのは昭和三十七年三月のことである。これは原稿用紙約五百枚の長編で、『浜工文学』第二十一号(昭和三十四年十二月)から二十七号(昭和三十六年九月)まで七回にわたって掲載したものを一冊にまとめて出版したのである。『浜工文学』第二十七号の編集後記に、平山はこの作品の主題を「戦争の否定」であると明記している。内容については、「事件や登場人物は七〇パーセント以上が虚構である」としているが、自伝的な私小説と言って良い。国鉄関係者を中心に好評だった。
小説集『人間風景抄』(亡羊社刊)の出版は昭和五十四年十月である。内容は『交通新聞』に掲載した中編小説「人間風景抄」(ただし、これは二十五編の掌編小説から成る)に短編小説四編、掌編小説二編、詩四編と社会時評「亡羊日録抄」を加えたもので、本文二百頁。この作品集も新聞の時評などに取り上げられ好評であった。
【『亡羊』】
平山は、昭和五十五年三月国鉄浜松工場を退職。『浜工文学』は第五十号(昭和五十五年三月)をもって終刊となった。平山は、国鉄を退職後ただちに同人誌『亡羊』を創刊(昭和五十五年六月)、旺盛な文学活動を続けることとなる。国鉄関係者以外にも広く呼び掛けて創刊された同誌創刊号巻末の同人住所録には十八名の名前が見える。同誌はその後、平山の熱意により息長く続けられたが平成十年六月、第五十四号をもって終わった。
図2-61 『亡羊』創刊号