村越一哲の活動については、既に『浜松市史』四(第二章第九節第七項)において彼の指導した浜松放送劇団との関わりを中心に紹介した。ここでは村越のその後の旺盛な活動を見てゆきたい。資料は『浜松市史』四で紹介した「浜松放送劇団史」(以下「劇団史」)である。
【浜松放送劇団】
図2-64 「高柳健次郎伝」の台本
まず、昭和三十~四十年代を見る。この期の活動の中心はやはり放送劇の指導で、特に三十年代前半ではほぼ毎月NHK浜松放送局から放送されていたようである。作者としては、村越自身のほか山本嘉次郎、渥美静一、気賀百合子、吉田知子、吉良任市などがいた。このほか舞台上演は三十四回、浜松市芸術祭には昭和三十七年(第八回)から参加している。八ミリ映画作成四本。昭和三十八年には村越作の「調律師物語」がNHKテレビで全国放送された。放送劇は昭和四十年(三作品)をもって終わり(昭和五十三年復活)、活動は舞台中心となってゆく。
四十年代においては、浜松市芸術祭を念頭に置いた活動であったようで、浜松放送劇団は毎年参加。静岡県芸術祭への参加は昭和三十八年(第三回)が初めてである。初めは福田恒存、三島由紀夫、木下順二などの作品を上演しているが、次第に村越自身の作品が多くなる。
五十~六十年代(昭和六十三年まで)を見る。おおよそ前の期の延長線上にあり、浜松放送劇団は市芸術祭と県芸術祭には毎年参加。後者においては、毎年のように芸術祭賞または奨励賞を受賞している。上演作品のほとんどが村越の脚本によるものであった。こうして、昭和五十九年、長年の活動実績が認められ、浜松市芸術祭三十周年に当たり、村越一哲が代表を務める浜松放送劇団は浜松市教育文化奨励賞を受賞した。注目されるのは、昭和四十年をもって絶えていた放送劇が復活したことである(昭和五十三、五十五、五十七、五十八、五十九、六十年、平成元年)。ただし、年に一回ずつの放送であった。昭和六十三年、劇団は創立四十周年を迎え、記念公演として「遠州倉松十番斬り たき女覚え書き」を浜松市福祉文化会館ホールにおいて上演した。この作品はこの年の県芸術祭への参加作品ともなった。前年の昭和六十二年には、NHK銀河テレビ小説「男の子育て日記」(小山内美江子作)に、劇団員が総出演し二十回連続で全国放送されるということもあった。
【「暴れ天竜・川狂人」】
平成元年以降について見る。舞台公演が中心で、郷土の偉人が取り上げられていることが注目される。平成二年、村越の作・演出による高柳健次郎伝「無線遠視法事始め」が上演され、翌年には続高柳健次郎伝「幻の東京オリンピック」が上演された。平成五年には劇団の四十五周年記念として、村越の作・演出により小百合葉子物語「たんぽぽの花は咲いた」が浜松市福祉文化会館ホールで上演された。これは、この年の県芸術祭招待作品ともなった。金原明善を取り上げた「暴れ天竜・川狂人」の上演は平成十五年である。平成十八年、劇団は創立六十周年を迎え、記念公演として熟年離婚をテーマとする「藁科川」を上演した。
村越の演劇活動は長期にわたり、活力に満ち超人的なものがあるが、他方で村越は浜松市の社会教育委員長、市芸術祭市展の運営委員長、浜松ユネスコ協会会長等を歴任し、市の社会教育・芸術文化の振興に尽力した。また、本業の自営業者として市の商業の振興にも貢献した。こうした功績により平成五年、浜松市市勢功労者として表彰されている。