産婦人科医であるかたわら、浜松市の社会教育の振興、文化の向上に大きく貢献した内田六郎については、自由律俳句の作者としての活動を中心に、既に『浜松市史』四において取り上げた。内田の活動は実に多岐にわたっており、『浜松市史』四においては触れなかったが、美術品の収集家としても著名であった。長年にわたる努力により集められたおびただしい所蔵品の中で、特に有名なのはガラス絵と広重の版画であった。この貴重な美術品を、何と内田は浜松市に寄贈したのである。昭和四十六年一月のことである。
【浜松市美術館】
内田はかねてから、浜松市立の美術館が建設された暁には、収集した美術品を寄贈してもよいという意向を抱いており、昭和四十六年七月、浜松市が市制施行六十周年記念事業として建設中だった市美術館が完成したのを機に思いを実現させたものである。寄贈品の内容は、初代の安藤広重を中心に二、三代広重の版画百五十点と西洋や中国をはじめ日本の長崎系と江戸系ガラス絵百四十五点である。このうち広重の作品は「遠江における広重の版画」と題し、五十三次のうち遠州地方に関係のある金谷の宿から白須賀の宿まで、九カ所の宿場を描いた作品に絞られている。浜松市美術館の落成式は、昭和四十六年六月三十日。市制施行記念日の七月一日から一般開放され、開館記念の展示は、内田の寄贈品による「ガラス絵展」と「遠江の廣重展」であった。同美術館の建設は内田の全面的な支援協力なくしては実現しなかったと言っても過言ではない。内田は三十七年浜松市市勢功労者として市長表彰を受け、昭和四十六年には浜松市名誉市民に推挙されている。亡くなったのは昭和四十九年九月三十日。享年八十一、勲四等瑞宝章、従五位を受けた。
なお、昭和五十一年九月、豪華本のガラス絵集「内田コレクション ガラス絵」が、浜松市美術館の協力により静岡新聞社より刊行されている。
図2-66 『硝子絵』