[劇団たんぽぽと青少年演劇センター]

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【小百合葉子 劇団たんぽぽ】
 小百合葉子(本名=山下みゑ、現在の滝沢町出身)が、終戦直後長野県で立ち上げ同県内で活動していた劇団たんぽぽが、昭和二十八年、活動の拠点を浜松市元魚町に移したこと、同三十年、文部省から実績を認められて社団法人教育演劇研究協会劇団たんぽぽを称するようになったことは『浜松市史』四に記した。
 同劇団のその後の活動を見ることにしたい。最も参考になる資料は本田節子著『小百合葉子と「たんぽぽ」』(昭和六十一年十一月、東海大学出版会刊)である。同書巻末の年譜によれば、劇団は昭和三十二年五月、篠ケ瀬町に新道場を建設(三十八年に全焼する)し全国的な公演活動を始めており、同三十五年頃から小百合や同劇団がテレビや映画に取り上げられ世間の注目を集めるようになる。同三十八年には静岡県の文化奨励賞(団体の部)、日本児童演劇協会奨励賞を受賞しこの年から沖縄公演が始まっている。これによって劇団と沖縄との関係は深まり、以後長く沖縄公演が続けられることとなる。昭和四十年には、劇団創立二十周年記念公演として浜松市民会館において「守銭奴」(モリエール作、村越一哲演出)を上演。また、この二十周年事業の一環として翌昭和四十一年には北海道公演が行われ、これが同四十四年の村越一哲の脚本による、北方領土復帰運動をテーマとする演劇「岬」の北海道公演へとつながってゆく。一見、順風満帆のように見える小百合の演劇活動であったが、大きな挫折を味わうこととなったのが青少年演劇センター建設問題であった。同センターの建設は、もともと小百合が劇団創立二十周年事業として考えたことであったが、それに高度成長期の地元経済界、政界の事情や政治的な沖縄問題などが絡んで、極めて複雑で厄介な展開を見せることとなる。同四十四年、施設は一応完成したが最終的には不動産会社の所有となり、彼女には多大な借金のみが残されるという結果となってしまった。前記本田の著書によれば、小百合は「人生という旅は登りもしんどいけど、下りも結構しんどいね」と言ったという。本田はその「下り」とは、「青少年演劇センター」失敗以後のことであろうと記している。
 大きな挫折はあったが、その後も小百合の演劇活動は地方公演を中心に粘り強く続けられ、昭和五十六年に浜松市市勢功労者として表彰され、翌年には勲四等瑞宝章を受章している。亡くなったのは昭和六十一年一月十三日。享年八十四であった。劇団たんぽぽは平成二十三年現在も活発な演劇活動を続けている。

図2-67 『小百合葉子と「たんぽぽ」』