遠州の国学について、戦前から研究を続け着実に業績を積み上げてきた小山正は、引き続き精力的に研究を進め大きな成果を残している。幕末国学者『八木美穂(よしほ)伝』(七百三十七頁、以下『美穂伝』)と水野忠邦国学の師『高林方朗の研究』(六百十一頁、以下『高林方朗の研究』)の刊行である。
小山はこれまでに三人の国学者の伝記をまとめ、世に問うている。すなわち『賀茂真淵伝』(昭和十三年、千八頁)。『内山真龍の研究』(昭和二十六年、七百三十四頁)、『石塚龍麿の研究』(昭和三十一年、五百五十二頁)の三冊である。いずれも、著者自身が調査した膨大な資料を基に様々な角度から考察を加えた大著である。ここに取り上げる二著も、それまでの国学研究の実績の上にまとめられた労作である。
【『八木美穂伝』】
図2-69 『八木美穂伝』(標題紙)
まず、『美穂伝』である。奥付を見ると、刊行は昭和三十五年六月二十日、発行所は八木美穂顕彰会となっている。これまでの小山の著作と同じく、佐佐木信綱の序文と自序があり、末尾に大石徳四郎(美穂の曽孫)と尾澤只一(元小笠郡城東村の人、遠州国学研究家)の跋文がある。本書成立のいきさつについては、大石の跋文に詳しい。美穂の曽孫である大石は、縁者からたまたま東遠の名山淡ケ岳を詠んだ美穂自筆の長歌の一軸を譲り受け、急に八木家に対する関心を深めた。後、静岡県立図書館葵文庫司書の飯塚傳太郎の好意により、美穂の著書『校正郷土雑記』を読み、さらに飯塚の苦心に成った美穂の歌集『中林歌集』(『中林詠草』のことか)の万葉仮名対訳の稿本を譲り受け、ついに曽祖父八木美穂伝の刊行を決意する。執筆は、飯塚の推薦により浜松の小山正に依頼した。以来七年、小山による調査・研究・執筆が続けられ当書は完成した。
【『仮字岱』 草鹿砥宣隆 『古言別音鈔』】
内容は、序説と本説に分かれている。序説は、本説の要約と見なすことも可能である。本説の中で注目すべき点を二つ挙げておく。一つは、第二篇「攻学」中の第二章第六節「仮字音韻(著作、その他)」で、ここに取り上げられている美穂の著作『仮字岱(かなぶくろ)』は、石塚龍麿の『仮字用格奥の山路』(以下『奥の山路』)を平易、簡便にしたものである。『奥の山路』は、後に橋本進吉博士によって上代特殊仮字遣いの研究としてまとめられた、上代の特殊な仮字の用法について、江戸時代の後期において既に龍麿が研究を進めていたことを示している。本居宣長の示唆があったとはいえ、これは国語学史上の画期的な業績とみなされている。『仮字岱』は、その龍麿の説を八木美穂が受け継いでいたことを示しており、これもまた国学史上の貴重な資料と言って良い。ただし、この『仮字岱』は、美穂の弟子である草鹿砥宣隆(くさかどのぶたか)が、同じく『奥の山路』の内容を平易簡便にまとめた『古言別音鈔』(以下『別音鈔』)にそのまま収められていて、『別音鈔』が世に知られることにより存在が明らかになったものである。美穂は『別音鈔』に序文を寄せており、小山はそのことにも触れ美穂の序文の全文を紹介している。(『古言別音鈔』の「鈔」の文字を、小山は「鈔」と「抄」の両方を用いているが、ここでは「鈔」としておく。)
本説で注目すべき点の二つ目は、第四篇「美穂の歌道」の第六章に「校註 中林詠草 全三巻」(目次では「校註 中林詠草 三巻」)として、美穂の和歌が大量に収められていることである(中林は、美穂の晩年の号)。「中林詠草」は美穂の自筆本は伝わっておらず、大久保本・鈴木本・葵文庫本等の写本が伝わっている。小山はこの「中林詠草」の歌に、日記等から若干の歌を補って九百余首とし第六章にまとめている。これにより、美穂の和歌の世界をうかがい知ることが出来るという点で資料として貴重である。美穂の歌は、約半数が万葉調であるところに大きな特徴があり、しかもそれらは万葉集の表記に倣って書かれている。当書においては、それらが訓読された形で載せられているが、もし原文のままで載せられていたならば、美穂の万葉仮名理解の実際に触れることができ、資料的価値はより高いものになったと思われる。
なお、第五篇「美穂と交渉のある人々」には、同学と門人約百名の国学者が取り上げられ、それぞれ略伝が記されており、遠州国学研究の貴重な資料である。ただし、ここに内山真龍と石塚龍麿の名が見えないのは既に二人の伝記を刊行しているからであろう。
【『高林方朗の研究』 「臣下庵詠草」】
図2-70 『高林方朗の研究』(標題紙)
次に『高林方朗の研究』を見る。高林方朗は遠江国長上郡有玉下村に生まれ、庄屋として村政に尽くすとともに、内山真龍・本居宣長に入門して学問と詠歌に励んだ国学者で、国学運動の実践家として遠江国学の全盛期を作った人物である。当書の刊行は奥付によると昭和三十八年九月。発行所は高林方朗顕彰刊行会となっている。これまでの小山の著した伝記と異なって、いわゆる序文はなく最初に序として「高林方朗略伝」がある。跋文によると、小山が高林方朗の研究に着手したのは昭和三、四年頃であったという。当時の高林家の当主は十四代高林兵衛で、その深い理解の下に高林家所蔵の多量の資料を調査して研究は進められた。中心となる資料は、日記(これを基に年表が作られた。)と「臣下庵詠草」(七千余首)であった。このほか内山真龍・石塚龍麿・夏目甕麿・小国重年・服部菅雄・八木美穂・栗田土満・石川依平らの資料をも調査して当書の原稿はまとめられた。小山は跋文の中で、方朗の研究は今まで研究らしいものは成されていないと述べ、「私の研究は謂はゞ新開拓でもある。」と自信のほどを示している。
口絵と目次の前に「序 高林方朗略伝」がある。本文に当たる部分は、第一編 遠江国有玉村高林氏系譜 第二編 志学 第三編 民政家高林方朗 第四編 高林方朗と浜松城主水野忠邦公 第五編 方朗の国学運動 第六編 交友 第七編 年表 第八編 資料集 第九編 高林方朗抄 第十編 方朗の逝去とその古学精神の顕現 の十編から成る(冒頭の略伝部分は、本文部分の要約と見なしても良い)。