「県居霊社修造の沿革」

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 このうち特に注目されるのは、第四編「高林方朗と浜松城主水野忠邦公」と第五編「方朗の国学運動」である。方朗の生涯において水野忠邦との交流は極めて大きな意味を持っており、その点で第四編は重要である。内容は「其の一 水野忠邦公の雅道」と「其の二 高林方朗の勤仕」の二つに分かれている。次に第五編であるが、国学者としての方朗の活動内容が、どのようなものであったかを資料に基づいて具体的に述べている。五章から成り、このうち、特に第二章と第三章が貴重な記録である。第二章「学祖霊祭」は、方朗が中心となって文化十四年浜松梅谷本陣にて挙行された宣長の十七年霊祭に関する記録と、文政元年に同じく浜松梅谷本陣にて行われた真淵没後五十年の霊祭の記録である。これは、極めて詳細な記録で、この霊祭挙行に際し多くの遠江国学者の中で方朗が最も重要な役目を果たしていたことが分かる。第三章「方朗の粉骨に因る県居霊社」は四節から成る。中心となるのは第四節「県居霊社修造の沿革」で、修造の内願、水野忠邦公の碑文、社地の見立、公儀への造立願書、設計図、勧進、碑石、社殿、竣工、遷座式、社頭歌会等につき、資料に基づいて具体的に詳細に記している。特に、当然予想されることながら、費用調達(勧進)に方朗は一方ならぬ尽力をし苦労するが、その様子がこと細かく具体的に記されている。霊社の上棟式遷座は天保十年(一八三九)三月二十二日。文政四年(一八二一)から約二十年間、方朗が寝食の間も忘れることの出来なかった大事業がひとまず完了した。小山は、さらに永代除地(公租免除)の申請、社頭の歌会に触れ、また明治以降の現在地への移転と県社県居神社への昇格にも触れてこの章を閉じている。
 小山はこの後、自身でまとめた「履歴と研究」(昭和三十六年)によれば、さらに栗田土満・竹村茂雄・夏目甕麿・小国重年ら遠州の国学者について研究を進め、その伝記をまとめることを目指していたようであるが、昭和四十六年に死去。享年八十三。
 なお、小山は昭和三十二年文学博士の学位を受けている。また、昭和三十六年には浜松市市勢功労者(当時は浜松市功労者)として表彰されている。