浜松の生んだ治山・治水の偉大な功労者、金原明善については戦前から戦後にかけて児童向けのものを含めて数多くの伝記が刊行されてきた。しかし、その多くは本人の口述または巷間(こうかん)に伝えられているエピソードを主な内容とし、多分に教訓や修養を目的とするものであった。本格的・学問的かつ画期的な伝記が刊行されたのは明善の死後四十五年を経た昭和四十三年一月のことである。正伝としての『金原明善』(八百七十一頁)、『金原明善』資料上(八百八十五頁)、『金原明善』資料下(千七十七頁)、の三冊セットでどれも膨大な頁数である。正伝の奥付を見ると監修・土屋喬雄、編集・発行・金原治山治水財団、製作・中央公論事業出版とあり、著者の名前は見えないが発刊の辞(財団法人金原治山治水財団理事長 平野繁太郎)等の五つの文章から正伝の執筆者は新谷九郎であることが分かる。
この大事業完成までのいきさつと、当書がどのような方針の下に作成されたかを知る上で重要なのは、「発刊の辞」(平野繁太郎執筆)、「監修の辞」(土屋喬雄執筆)と「あとがき」(新谷九郎執筆)である。三つの文章によると、金原疎水財団(後の金原治山治水財団)が明善の伝記編さんに着手することを決めたのは明善の逝去後の大正十二年で、何回か編さんに着手したが、様々な事情により実現しないままでいた。昭和三十年代初めになって、金原治山治水財団の理事長を務めていた中山均(明善の孫娘婿、昭和四十一年十二月死去)は明善伝の編さんを理事会に提案した。これは、同書の編さんについて中山が、東大名誉教授土屋喬雄に相談し、土屋から正伝編さんと明善記念館の設立を勧められたことがきっかけであった。昭和三十四年に金原明善翁史料編纂委員会が発足した。監修担当土屋喬雄、委員長水野定治、土屋の推薦により資料調査及び執筆は新谷九郎、文書・記録の謄写は諸沢茂、そのほか中山、平野など十五名がそのメンバーであった。新谷九郎は「あとがき」において、この伝記執筆に当たって用いた方法論について詳細に記述している。こうして、昭和三十四年二月に執筆が開始され、第一章「時代と環境」から最後の第十三章「明善の思想」までの中心部分に、「翁の思い出」と年表ほかの「付録」・「参考文献」が添えられ、八百七十一頁の当書が刊行されたのは昭和四十三年一月である。刊行までには約九年を要し、この間には新谷の発病による執筆中断、財団の三人の理事の死去など重大な危機に直面したこともあったがそれを乗り越えての事業完成であった。
図2-71 『金原明善』全三冊