【市民の木】
市民の木
昭和20年6月18日の〝浜松大空襲〟により市街地の大半が焦土と化し、プ
ラタナスの並木も枯死したと思われました。
しかし、奇跡的に3本だけは幹に焦げ傷を残しながらも市民の愛の手に守ら
れ、2年後の春見事に発芽しました。
以後このプラタナスは道行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。
戦火の中からよみがえり市民とともに生きた木として、昭和39年6月には
〝市民の木〟と命名された記念すべき樹木です。
浜 松 市
(※以下、同じ内容が英文で表記されているが、省略する。)
ここに登場するプラタナスは、戦前、鍛冶町通り(御幸通り)にあったもので、もと四十六本あったという。このうち鍛冶町側に一本、旭町側に二本が焼け残ったのである。戦後、鍛冶町側のものは鍛冶町通りの真ん中に位置することとなった。これが「市民の木」と名付けられることとなり、命名式が行われたのは昭和三十九年六月十八日のことである。式には市長をはじめ、教育長、社会教育課長、社会教育委員、地元代表者らが参列した。この木のことを藤枝静男は次のように書き残している(『浜松百撰』昭和三十六年新年号)。「プラタヌスの木は残った」と題し、浜松の市街の乱雑さを辛剌(しんらつ)に描写した後に続けた文章である。
この西部劇に出て来るような景気のいい町に、しかしたった一本だけプラタヌスの木が残っている。
新川橋を渡った富士銀行前の道の真中に夏になると枝葉を繁らせて緑陰をつくってくれるあのプラタヌスの大木である。大げさに云えば行き交う自動車の群をかわしてあの安全地帯にたどりついた人々はあの木の陰でホッとひと息ついてハンケチで汗をぬぐうのである。勇ましい市のお役人は富士銀行移動の際に面倒だとばかりこの木を切り倒そうとしたのだそうだが、鍛冶町の人々が長い戦にも激烈な艦砲射撃にもめげず生き残ったこの一本の街路樹を惜しんであそこに残し、今われわれはその恩恵に浴しているのである。私はあの辺りを通る時いつも樹木を愛し生命を大切にする人々の善意を思い感謝と敬愛の念にかられるのである。
ここに取り上げられているのが初代の「市民の木」である。木はその後はどうなったのであろうか。以下の記述は主として加藤幸男著『浜松 市民の木』(平成元年刊)に基づくものである。木はまず昭和四十二年、地下横断歩道工事のためにすぐ近くの新川公園(現浜松郵便局の西側)に移され、次いで昭和五十六年、今度は遠鉄高架化工事に伴い浜松市緑化推進センター(大塚町)に移植された。ここでは、初め土壌が良くなかったことと移植時期が適切でなかったことによりすっかり衰えてしまった。しかし、それでも関係者の懸命の努力により樹勢は回復し平成十五年現在でも、健在である。浜松市は昭和六十二年、第七回緑の都市賞を受賞したが、この木の存在が評価の柱となった。
前述の駅北「市民の木」は二代目で、旭町側に残ったプラタナス二本のうちの一本が、一時現在の科学館の近くに移されていて、それが駅周辺の整備が終わったところで現在地に移されたものである。あとの一本は、浜松城公園内に移されており、これも健在である。鍛冶町にあったプラタナスの並木四十六本は、戦争中の激しい空襲を受けながらも、生き残った三本がそれぞれ別の場所で今もたくましく生き続けているのである。なお、以上の記述から分かるように、「市民の木」の初代と二代目は、戦火をくぐり抜けて生き残ったという点では同期生である。
図2-73 市民の木