[市の木・市の花・市の鳥の制定]

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【市の木 市の花 市の鳥】
 国や県、あるいは市や町などで特定の動植物を、例えば市の木・市の花・市の鳥などと定めるようになったのはいつごろのことであるかはつまびらかではないが、住民の郷土への関心や愛着心を育むことが狙いであったと想像される。平成十六年の合併前の浜松市の場合、市の木は松、市の花は萩、市の鳥はツバメであった。この三つは同時期に定められたものではないが、便宜上三つをまとめてここで取り上げておきたい。
 まず、市の木と花が定められたのは昭和四十六年七月一日のことで、それは市制六十周年を記念しての事業の一つであった。また、市の鳥が定められたのは、それから二十年後の平成三年七月一日のことで、こちらは市制八十周年記念事業の一つであった。この三つは、それぞれどういう意味で選ばれたのか、『浜松市例規集』を見ると「説明」として次のように記されている。
 
  市の木(松) …浜松の「浜」は海浜、「松」はそこに繁茂する常磐木であり、土地の名称もこれ
         らのことから生まれたとのことです。(以下略)
  市の花(萩) …当地方には、万葉の昔から萩にまつわる歌がよまれ、古くから萩が多生していた
         ものと思われる。(以下略)
  市の鳥(ツバメ) …(前略)さらに、かつ達に飛翔(しょう)する姿は本市の発展を象徴し、馬込川
           河口は日本有数の寝ぐらともなつている。
 
 市の木と花は市民からの公募により、制定委員会が第一位のものを選んでいる。鳥は市民からの公募を基に、十人の有識者が市内各地を回って調査した結果、最もふさわしいものを選定した。
 松と萩について、補足しておく。市の記章の制定は明治四十四年七月一日(市制施行時)で、前記『例規集』を見ると「意匠」として「市は波濤逆巻く遠州灘に臨み古来松の景勝をたたえられたところから波で松の字体(公木…緑色)を囲み、これを象徴したものである。」とあり、市の木として松が選ばれたのはごく自然なことであったと考えられる。市歌の制定は、市制施行五十五周年(昭和四十一年)に際して発行されたパンフレット「浜松市歌」によれば、市制施行十周年の大正十年七月一日(正式な制定は、昭和四十六年七月一日)である。作歌は森林太郎(鷗外)、作曲は本居長世であった。一番目の歌詞は次の通りである。
 
  大宮人の 旅衣/入りみだれけむ 萩原の
  昔つばらに たづねつる/翁をしのべ 書よまば
 
周知のように、ここに歌われた「翁」は浜松出身の偉大な国学者賀茂真淵のことである。「大宮人の旅衣入りみだれけむ萩原」は、万葉集中の一首「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」(長忌寸奥麻呂、巻一、五十七)を踏まえている。この歌の「引馬野」については浜松説と三河説とがあって、定説はないが真淵は浜松説である。鷗外作歌の浜松市歌は、万葉の奥麻呂の歌を踏まえ真淵の説に添っているわけである。市の花制定に当たって、浜松市歌という根拠に基づいて萩が選ばれたことは筋が通っている。ただし、奥麻呂の歌の「榛原」については、現在萩説よりも榛説が有力のように見受けられる。その点から言えば、平成十八年に新しく制定された市の花が、萩を踏襲せずみかんが選ばれたことは妥当な判断だったと言えるであろう。