東海道線の高架化工事はオイルショックによる事業の遅れはあったものの工事は進んだ。この高架化工事で最大の難所となっていた成子町から森田町に至る浜松こ線橋の取り壊しが昭和五十三年一月十五日から始まった。そして同年中には五・三三キロメートルの高架の全貌が姿を現した。そして、総工費約二百五十七億円(国庫補助約百五十四億円、県約三十八億円、市三十八億円、国鉄約二十七億円)を投じた高架化事業が完成、栗原市政下の昭和五十四年十月十五日の午後二時から浜松市体育館で完成記念式典が、同四時二十分から新しい浜松駅高架ホームで高架開通式が行われ、午後五時(四分遅れ)に浜松発の上り普通電車が高架上の線路を出発した。こうして、明治二十二年(一八八九)に東海道線が開通してからちょうど九十年目で地面に張り付いていた線路が〝不用〟になり、「開かずの踏切」だった平田踏切も消えた。これにより、立体交差となる道路は三十一路線(新設十路線、改良二十一路線、踏切の除却十四線)となり、市民の悲願であった「南北の通り抜け」がようやく実現した。これにより、南北交通の円滑化はもとより、南北市街地の均衡ある発展、踏切事故の解消など、浜松市の発展に大きな役割を果たすことになった。