東海道線の高架化工事が進む中、遠州鉄道高架化事業連絡協議会が昭和五十二年十一月に開かれた。遠鉄高架は東海道線の高架、浜松駅周辺整備とともに一体の事業として昭和四十七年に都市計画決定されたものである。国鉄浜松駅前の新浜松駅から遠州馬込駅でスイッチバックして遠鉄浜松駅に至る区間を廃止し、新しい国鉄浜松駅から新川の上を通し、遠州助信駅の南方に至る区間を高架にするという計画であった。協議会では国鉄の高架完成から遠鉄の高架完成までをどのようにするか、騒音など環境への影響をどのようにするかを話し合い、計画の具体化を目指した。
栗原市政下の昭和五十五年七月五日、浜松駅前整備と遠鉄高架化問題についての市政懇談会が開かれた。これは高架に関係する中央地区と東地区の自治会連合会が開催したもので、市側が早期着工を要請したのに対し、住民の一部は駅前の自家用車利用者のための乗降スペースの拡大、新川の駐車場確保、生活・商業環境の変化などで反対する声が出ていた。これらの意見を調整し、高架化された国鉄浜松駅への乗り入れはやめて、現在の新浜松駅を起点とし、昭和五十五年十二月十一日から高架化工事に着手した。同五十八年五月には最難関工事といわれた万年橋と新川橋の橋梁工事が終わった。そして同六十年(一九八五)十二月一日午前五時五十四分発の高架完成一番電車が新浜松駅を発車した。着工以来五年、約百億円を投じ、新浜松駅から助信駅までの二・六四キロメートルが高架となり、これにより立体交差となる道路は二十一路線に及び、交通の円滑化が進んだ。浜松の中心街のビルの林を縫って遠鉄の〝赤電〟が走るようになった。高架化の完成で新浜松駅―西鹿島駅間の所要時間はこれまでの四十分から三十六分に短縮された。