【住居表示】
浜松市の住居表示は第二章で述べたように昭和四十年四月の和地山三町と船越町で実施された。以後、中心部からやや離れた鴨江、広沢、伊場、蜆塚、住吉などは昭和四十年代に、幸、佐鳴台、萩丘、小豆餅、葵などは昭和五十年代初めまでに実施となったが、市の中心部は昭和五十二年度末に至っても住民の熱意が盛り上がらず難航を極め、まったく手付かずの状態であった。これは、中心部には大工、肴、連尺、鍛冶などといった由緒ある町名が多く、これがなくなったり、町が分断されることに対する住民の拒否反応が強かったためである。市は早期決着を目指したが、中心部の住居表示は進展が見られなかった。これに対して泉町は、八三七番地には八百世帯もあって郵便物が混乱していたので住民が立ち上がり、昭和四十九年八月一日に住居表示が実施され、分かりやすくなった。また、曳馬地区も住居表示には積極的で、高林町、上島町、曳馬町などは昭和五十六年から同六十年にかけて住居表示が実施された。このほか、多くは中心部からやや離れた住宅の多い地区で実施されていった。