市内の墓地には宗教法人の所有する墓地、公有・共同墓地、市営墓地、個人の墓地などがある。このうち、最も多いものは宗教法人、特に寺院所有のものである。浜松市の墓地は中沢墓園、住吉墓園、三方原墓園であるが、このうち、住吉墓園は旧陸軍墓地を修景地として保存(忠霊殿や平和記念広場など)していて一般の人たちの墓地はない。中沢墓園は大正十三年に火葬場の開設とともに開園したもので、戦後に戦災復興事業で寺院や墓地の移転が行われた際に大安寺、法雲寺、新豊院、玄忠寺の墓地がここに移された。また、教興寺と齢松寺は墓地のほか、本堂や庫裏も中沢町に移転してきた。寺院、墓地の移転を受けて中沢墓園は拡張されたが、中心部に近く便利であったので、昭和四十五年(一九七〇)には造成した二千九百八十九区画が満杯となった。三方原墓園は墓地の需要増大を見越し、昭和三十七年に都市計画墓園として整備されることになり、昭和四十七年から同四十八年にかけて九百三十六区画を整備した。この際、造成費に加え用地費も受益者負担としたため、これまでの四倍(一区画二万一千円)となり問題となった。その後も整備を進めたが、昭和五十六年五月でこれまで整備した墓地二千六百二区画が満杯となった。このため、市は昭和五十六年度から十カ年計画で三方原墓園の整備を始めた。墓園の全体面積は浜松球場の約七倍に当たる十六ヘクタール、ここに普通墓所と芝生墓所、合計九千基を整備するものであった。この三方原墓園はこれまでの墓地のイメージを一新するもので、単に墓所としてだけでなく、安らぎを与え、多くの人たちが憩い集える公園(日本庭園、噴水、多目的広場、モニュメント広場、駐車場などを設置)としての性格を持たせるというものであった。この新しい墓園のうち、芝生墓所五百三十六基は昭和五十六年度末までに完成し、同五十七年四月から利用の申し込みを始めた。
図3-2 三方原墓園の芝生墓所
【火葬場 斎場会館】
なお、大正十三年に出来た浜松市火葬場の老朽化が進んだのを受けて、昭和四十六年に近代的な火葬場を建設、同年十一月二十七日に完工式と火入れ式が行われ、十二月から使用を始めた。この火葬場は炉がこれまでの二倍を超える十五基、臭気などの公害が発生しない施設となった。この一年後の昭和四十七年十二月一日には火葬場に隣接して斎場会館が開館した。これは葬儀・祭儀を行うところで、一階に洋式の葬祭室、三階に和式の葬祭室を設けた。このような施設が出来た背景には小住宅やアパートが増えて、自宅で葬儀・祭儀を行うことが困難になったことが挙げられる。こうした斎場会館は全国にも数都市しかなく、市民の注目を集めた。
なお、この後、火葬場周辺には民間の葬儀場が数多く建設されていった。