防衛施設庁と浜松市は騒音対策適用地域の線引き作業を進めていたが、三段階の騒音区域指定がようやくまとまり、昭和五十四年八月三十一日に告示された。栗原市政が始まって約四カ月後であった。原案が提示されたのは昭和五十一年、この範囲が狭かったため一部の住民から不満の声が上がり地元と協議を続け、それ以来三年ぶりの告示であった。指定基準は騒音の大きさ、頻度、継続時間、発生時間帯などを加味した加重等価継続感覚騒音レベル(WECPNL)によって三地域に区分された。第一種区域はWECPNLが八十五以上、第二種は九十以上、第三種は九十五以上。昭和四十九年に施行された防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律では、第一種区域では各戸に対し一部屋(五人家族以上は二部屋)に防音工事をし、エアコンをつける。第二種に対しては移転補償に応じる。第三種は無人化して緑化するとなっていた。告示に伴う対策実施対象世帯は防音工事約三千五百戸、移転補償は約二百八十戸だが、昭和五十年度から五十三年度までに、既に千百七十九戸で防音工事が行われ、移転した家屋も二百七十四戸になっていた。この告示によって同五十四年度は九百戸から千戸の工事がされることになった。なお、第三種区域に該当する谷上地区十九戸は既に昭和三十六年に移転を終えていた。
この後、WECPNL値が八十まで引き下げられたのに伴い、有玉西、有玉南、小池、初生、大瀬、上島の六町にまたがる千五十二ヘクタールが第一種騒音区域に追加されることが昭和五十六年七月十八日の告示で決まった。これにより、新たに九千三百戸が防音工事の対象となった。前回の指定と合わせると浜松市の第一種騒音区域は千八百十六ヘクタール、世帯数は一万三千戸となり、防音工事が新たに開始された。そして、昭和六十二年度までに一万一千二百九十四戸が防音化され、新規の防音工事はほぼ終わり以後は新規は少なくなり、追加の防音工事が行われていった。これらのほか、基地対策事業としては防音工事などの障害防止工事が学校、幼稚園、保育園で、民生安定施設として道路の舗装や新設、消防ポンプ自動車の購入や防火水槽の建設、学習等供用施設(会館)の建設、公園の建設などが多くの補助金を受けて行われた。
【浜松基地航空祭 ブルーインパルス墜落事故 浜松市基地対策協議会】
昭和五十七年十一月十四日、浜松基地航空祭において第四航空団(松島基地)所属のT2機(ブルーインパルス六機中の一機)の大観衆が見守る中で基地から約五百メートル離れた自動車会社の配車センターの駐車場に墜落、乗員一人が即死、付近の住民ら十二人が重軽傷を負い、住宅一棟を全焼、工場一棟が半壊するという事故が発生した。基地内には約八万人の観衆がおり、墜落現場から北に約百メートルには東名高速道路があって危うく大惨事になるところであった。事故を受けて原因究明が行われたが、浜松市基地対策協議会会長の栗原市長らは浜松北基地で伊藤防衛庁長官と会い、①被害者への十分な補償 ②市街地、夜間の飛行の安全を徹底する ③事故原因を究明し、安全飛行が確認できるまで飛行訓練を中止する、などを申し入れた。なお、遠労会議などでつくっている浜松基地反対市民会議は浜松基地撤去など六項目にわたる抗議文を基地に提出するなど反対運動を強めた。ブルーインパルスの墜落事故で訓練を中止していた浜松北基地は十一月二十九日から訓練を再開した。同日に開かれた浜松市基地対策協議会では再開に対し栗原市長は遺憾の意を表明、改めて安全飛行の申し入れを行った。また、市長はブルーインパルスの飛行について、「市街地上空でやらないよう口頭で申し入れてある」と述べた。
昭和五十九年六月二十七日に浜松市基地対策協議会の代表委員会が市役所で開かれた。この席で、米空母ミッドウェー艦載機の夜間離着陸訓練基地についての報告が行われた。事務局の話では基地の新設や関東周辺の分散化は未決定であるとのことであったが、浜松基地も代替基地の候補に挙がっていることもあって質疑が行われた。この訓練基地に関しては同協議会が過去二度にわたって国や防衛庁に反対の意見書や要望書を提出していた。この日の代表委員会でも栗原市長は代替基地化には引き続き反対していく方針を述べ、各委員も了承した。浜松基地はこの後、代替基地にはならなかった。
図3-3 浜松飛行場に係る区域指定図