浜松市北区の豊岡・三幸・大原町などの一帯や中区の高丘地区は戦前は日本軍の爆撃場で、戦後ここに入った開拓者は不発弾に悩まされ、何人かの死傷者が出たほどであった。また、市内中心部は地方都市としては全国で一、二を争うほどの米軍の爆弾や焼夷弾の投下を受けた。不発弾のうち地上にあるものの処理は戦後すぐに始まったが、地中に埋まったものは開拓や建設工事のたびに発見されていった。昭和五十二年十月八日、南伊場町の国鉄浜松工場内で排水管の工事をしていた作業員が約二・五メートルの深さに埋まっていた不発弾を発見、陸上自衛隊第一師団の隊員により九日に半径三百メートル以内の立ち入りを禁止し、信管を取り外す作業を行った。この間約十五分、住家二世帯が避難したほか、新幹線上下五本と東海道本線の三本が最寄りの駅で停止する事態となった。不発弾は艦砲弾で重さは八百四十キロもあり、第一師団管内(一都六県下)では過去最大のものであった。不発弾の発見は昭和三十三年以降これで二十個目であった。このすぐ後の同年十一月十四日には国鉄浜松駅構内の高架化工事現場からまたも不発弾が見つかり、戦時中に米軍が投下した二百五十キロ爆弾と分かった。翌十五日には半径三百メートル以内の四百四十世帯に避難を勧告、高砂小学校などに避難させた。また、新幹線は上下十二本が十分から二十五分、東海道本線も十一本が十五分から一時間十八分遅れ、旅客一万人が迷惑を被った。米軍によって投下された爆弾は二百五十キロ爆弾が多かった。当時の製造能力では五~八%の割合で不発弾が生じるとされ、市内の地下に眠っている不発弾は市民の脅威であった。栗原市政下になっても不発弾の発見が相次いだ。昭和六十年七月八日、東伊場二丁目の東洋紡績浜松工場跡地で重さ八百五十五キロの巨大な艦砲弾が発見された。これは特殊な信管が付いており回収までに約二カ月を要した。回収は同年九月八日、住民四千六百人を避難させ、新幹線は浜松・豊橋駅で停車させ、東海道本線の列車も停めた。当日は市の職員三百人、国、県、県警、消防など二百人が動員され、避難誘導や交通規制、防犯などの作業に当たったが、これほど大きな避難体制をとったのは初めてであった。
この不発弾騒動は平成に入っても続き、特にアクトシティの建設現場ではたびたび発見され、その都度住民の避難や列車の運行が停まった。
図3-4 不発弾の処理を報じる新聞