【西部衛生工場 浜名漁業協同組合 工事禁止仮処分申請】
人口増加により、パンク寸前になったし尿処理を打開するため、浜松市は伊左地町と湖東町にまたがる山林に西部衛生工場の建設に乗り出した。これまでし尿処理は、東部衛生工場と中部浄化センターで処理されてきたが、中部浄化センターは本来公共下水道処理施設として造られたため、西部衛生工場建設を計画していた。地元の各団体等とも公害防止協定を締結し、昭和五十一年内の着工を待つばかりとなった。ところが、浜名湖の漁業で暮らしを立てている浜名漁業協同組合の漁民は、同工場が稼働すると、希釈処理排水が浜名湖に流入し、淡水化と赤潮による被害が発生する恐れがあるとして、十一月にカキ養殖漁民ら約千五百人が浜松市西部衛生工場浜名湖放水反対期成同盟会を結成した。組合幹部は建設受け入れを原則的に容認する方向であったが、同五十二年(一九七七)十一月七日の浜名漁業協同組合の総代会では「条件つきで建設を認め、市と交渉を続ける」という案を退けて、希釈処理排水の放出に絶対反対を決議した。この後、漁民たちは県庁や市役所等に陳情を繰り返し、工場建設の白紙撤回を迫った。西部衛生工場の建設が同五十二年十二月十五日に静岡県都市計画地方審議会で承認されると、浜名漁協の漁民代表は、同月十六日に静岡地方裁判所浜松支部へ工事禁止の仮処分を申請する事態となった。裁判では漁民と市の言い分が対立、裁判所は和解に向けて交渉を呼び掛けたが同五十三年五月には交渉は決裂した。このような中、漁民は反対のビラ配りや署名運動を展開、一方、市は着工の準備を行うこととなった。同月二十三日には浜松市自治会連合会は総会で西部衛生工場の早期建設を決議、漁協にも協力を要請することになった。同日地裁浜松支部は和解の斡旋を打ち切る事態となった。
地裁浜松支部が同五十三年八月三日に工事禁止仮処分申請を却下すると、反対派の原告団は同月十一日に東京高等裁判所に不服申し立ての抗告をするまでになった。こうした中、市は八月十六日、ついに西部衛生工場の建設に着手した。同年九月八日、浜名漁協は西部衛生工場の建設差し止めと排水流出禁止の訴訟を静岡地裁浜松支部に起こした。同五十五年九月二十六日に工事差し止め仮処分は東京高裁で棄却され、この頃には工場はほぼ完成した。市は十月六日から試運転を開始、これに対し浜名漁協は庄内湾に漁船百二十一隻を動員して湖上デモを敢行して抗議した。試運転から約三カ月、工場からの放流が同五十六年一月六日から開始された。同月八日になって市は放流水の水質は規制値をすべてクリアしていると発表、同年二月十六日に西部衛生工場は本格的な稼働に入った。五月になって浜名漁協は臨時総代会で訴訟を継続しつつも、市との話し合いで解決しようという路線を決定、六月の総会でも訴訟と話し合いの二本立てで行くという方針を決定した。以後、和解に向けての話し合いが始まり、ついに昭和五十七年三月十三日に静岡地裁浜松支部において栗原浜松市長と宮崎浜名漁業協同組合長が和解調書に署名し、長かった紛争に終止符を打った。静岡地裁浜松支部が提示した主な項目は①西部衛生工場の一日当たりの最高し尿処理量は四百トン、十六倍に薄めた排水放流量は約六千四百トンとする、②放流水の水質はBOD五PPM以下、COD十PPM以下などの保証数値を守り、汚濁負荷総量の軽減に努める、③保証数値を超えた場合は運転を中止する、④浜松市は県、周辺市町村と協力して、浜名湖の環境保全、水質、水産資源の維持、改善に努める、など八項目であった。
なお、南部清掃工場、西部衛生工場、静ヶ谷最終処分場の三施設の合同落成式が昭和五十六年三月二十四日に南部清掃工場で行われた。