[コンベンション都市へ]

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【国際コンベンション都市 浜松コンベンションビューロー】
 浜松商工会議所と浜松市が準備をしていた浜松コンベンション誘致推進協議会の設立総会が昭和六十二年六月に開催された。コンベンションとは各種の学会や大会、見本市、音楽祭、スポーツイベントなどの催しのことで、人・物・技術・情報などを集め、交流を促進することが地域経済の活性化につながるとし、運輸省が構想を進めていた国際コンベンション都市に指定するよう様々な誘致活動を行った。この努力が実り、昭和六十三年四月十三日に国から国際コンベンション都市(国際会議都市)に指定された。この指定を受けたのは浜松市のほか、横浜市や名古屋市など全国で十九都市、浜松市と松本市を除いてはいずれも県庁所在地、県下では浜松市だけが指定を受けた。コンベンション都市は会議や展示会、国際大会などが開催できる会議・スポーツ施設や宿泊施設などを整備するだけでなく、質の高い都市環境をつくることが求められた。また、外国人なども受け入れる市民意識=ホスピタリティ(もてなしの心)の涵養、国際語(英語など)を使ってのサイン(標識)の設置など市を挙げての努力が必要となった。コンベンション都市の指定から約一年後の平成元年六月一日にコンベンション誘致のための推進機関となる財団法人浜松コンベンションビューローが設立された。当初の基本財源は四億五百万円、県や市、浜松商工会議所のほか、民間企業十社が出捐した。ここでは、コンベンションの誘致活動のほか、主催者への開催支援、浜松の広報・宣伝などを行った。ただ、この時点ではまだ大型の会議場、ホール、スポーツ施設などがなかった。
 平成元年九月にクリエート浜松や青年婦人会館などで全国から約百人の青年団体のリーダーを集めて日本都市青年会議が、十月には日本ピープル・トゥ・ピープル協会の第七回アジア大会がグランドホテル浜松で、十一月には約二千五百名を集めて日本腎臓学会総会がグランドホテル浜松や浜松市民会館で開催された。これらの開催はコンベンションビューロー開設以前に決まっていたが、その開催支援やアフターコンベンション(視察、観光、食事、懇親会など)など多くの仕事があった。この後、浜松アリーナやアクトシティ浜松などの巨大な施設が完成すると、これまで以上の大規模なコンベンションが始まるようになる。
 
【脳・精神科学の平和利用国際会議 浜松ホトニクス】
 これより少し前の昭和六十三年四月三十日から日本・アメリカ・ソ連三国の科学者が集まって脳・精神科学の平和利用国際会議がグランドホテル浜松で開催された。主催は浜松ホトニクス(株)と医学者らで構成する光科学技術研究会。会議では、人間の脳(心)と行動の関係を解明するため、脳・精神科学の分野で共同研究をすることに合意した。脳と心の仕組みの解明は医療や工業面だけでなく、将来は世界平和にも貢献すると期待されており、浜松ホトニクスの光技術を活用して研究に取り組むことになった。この会議は翌年には光科学技術で拓く脳・精神科学平和探究国際会議となり、浜松ホトニクスが設立した光科学技術研究振興財団が主催することになった。前年の三国に加え、イギリス、カナダ、スウェーデンからも科学者が参加し、脳・精神科学の研究により人類の福祉と繁栄に貢献することを目指した。この会議の後、浜北市のリサーチパーク内に浜松ホトニクスの中央研究所が平成二年に完成した。この国際会議はその後も開催され、浜松ではこの分野で世界の最先端の技術が育っていくことになる。