[高丘葵土地区画整理事業]

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【高丘葵土地区画整理事業】
 高丘葵地区は戦前は陸軍の爆撃場、戦後は開拓地として畑作中心の農業が、また、井戸から揚水しての米作が行われた。昭和二十九年四月、この地区の東(葵町)に本田技研工業の浜松製作所葵工場が出来てからは輸送機械関連の工場が数多く出来始めた。昭和四十七年に市街化区域の指定を受けてからは住宅が建ち始め、その二年後に浜松西インターチェンジが近くに開設されると流通機能を持った企業の集積も始まり、農・住・商・工が混在して無秩序な開発が進行するようになった。また、道路や排水路は開拓時代のままで、大雨が降ると各地で冠水が深刻になっていた。浜松市はここに各種の都市問題が起きないよう、道路・公園・上下水道の公共施設を合理的に配置し、用途地域(住居、商業、工業地など)に合わせ、理想的な市街地をつくるべく高丘葵土地区画整理事業を昭和四十八年度からスタートさせた。ただ、初期は産業優先の色彩が強いとか、減歩率が大きいなど、これに反対する住民がいて、事業開始が遅れた。地元住民への説明や計画の修正を経て、昭和五十三年六月に事業計画が決定、実質的な事業が開始された。その面積は約三百四十三ヘクタール、当初の総事業費は約百九十六億円と全国でも有数の大規模土地区画整理事業となった。土地区画整理審議会委員の選挙や審議会の開催、浜松西インター周辺の流通業務センター用地の処分、仮換地の指定、建物移転、道路や水路の築造などが進んでいった。
 この事業はその後長く続き、居住環境に優れた美しく新しい街に生まれ変わったのは平成十年のことであった(第四章参照)。