昭和五十七年(一九八二)十一月十四日に開かれた浜松基地航空祭の呼び物は、新生ブルーインパルス(戦技研究班)のアクロバット飛行であった。浜松でのブルーインパルスは前年十二月に解散、翌年一月に宮城県松島基地で新設、使用する飛行機はF86FからT2(昭和五十年から配備された国産の超音速高等練習機)に替わり、浜松には初めて飛来し、約一時間にわたり飛行を繰り広げていた。
【ブルーインパルス墜落】
この日編隊飛行を披露していた六機のうちの一機がショー後半のハイライト「下向き空中開花」の急降下に移ったところ、突然失速、基地から約五百メートル離れた北側の住宅や工場などが密集した所に墜落炎上した。操縦者が殉職したほか、重傷三名、軽傷十名、家屋二十八戸、車両二百九十一台の被害が出た。
【基地反対市民会議】
ブルーインパルスの公開展示飛行中の事故は、これが初めてであったが、浜松市民の受けた衝撃は非常に大きかった。もちろん、ブルーインパルスの本拠地松島基地でも周辺一市三町において「ブルーインパルス即時撤去決議」がなされたほどだが、自衛隊側の粘り強い説得により、同五十九年七月の松島基地航空祭において、T2ブルーインパルスの公開展示飛行がされた(『航空自衛隊50年史』)。そうした動きもあり、同年九月浜松北基地では、十一月の航空祭でブルーインパルスの展示飛行をしたい意向を表明した。すると、基地周辺の住民や基地反対市民会議などの反対、また、市当局も慎重な対応を望む、ということで結局断念せざるを得なかった(『静岡新聞』昭和五十九年九月十四日付)。そこで基地側も周辺住民に飛行再開への話し合いを続け、基地反対市民会議など一部の反対があったものの、翌六十年十一月十七日浜松でも三年ぶりに展示飛行が行われた(『静岡新聞』昭和六十年十一月十八日付)。しかし、曲芸飛行の再開はずっと遅れ、実現したのは平成十一年(一九九九)十一月十四日の航空祭(エア・フェスタ'99)で、事故から十七年ぶりであった(飛行機もT2からT4に替わっていた)(『静岡新聞』平成十一年十一月二日・十五日付)。