浜松基地

458 ~ 459 / 1229ページ
 平成元年(一九八九)三月十六日浜松南・北両基地が統合され浜松基地が誕生した。これは、昭和六十年(一九八五)政府の策定した中期防衛力整備計画の具体的な目標を定めた防衛計画の大綱(昭和五十一年決定)に示された基盤的防衛力を整備する必要から生まれた。基盤的防衛力構想は、「わが国に対する軍事的脅威に直接対抗するよりも、みずからが力の空白となってこの地域における不安定要因とならないよう、独立国としての必要最小限の基盤的な防衛力を保持する」という考え方である(『防衛白書』平成4年版)。それには航空自衛隊の組織改革が不可欠であった。航空自衛隊は昭和二十九年創設以来、米空軍をモデルにして部隊を建設し、必要に応じて個々の機能を整備してきたが、三十年間経過し、その組織・制度・運用上の観点から、種々の問題点が指摘されてきた。今度の改革はそれらを踏まえ、今後の時代の変化に適応させるとともに、有事に的確に対応し得る組織に整備しようとするものであった(『航空自衛隊50年史』)。
 
【航空教育集団司令部 『遠州灘』】
 昭和六十三年航空自衛隊発足以来初めてとなる骨幹組織の改革に着手した。同年十一月一日防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法)が改正され、航空自衛隊は作戦を担当する航空総隊、後方支援を担当する補給本部に加え、航空支援集団(作戦支援組織)、航空教育集団(教育組織)および航空開発実験集団(開発実験組織)を新設して、五つの機能別骨幹組織(このほかに直轄部隊がある)に整備するとした。そして翌年三月骨幹組織の改編が実施され、前述のように浜松基地が誕生した。そして、ここに航空教育集団が設置されることになった。これまで浜松北基地にあった飛行教育集団司令部(一般・飛行教育)と同南基地の術科教育本部(航空機・ミサイル・レーダー等の整備教育)が廃止され、新たに航空自衛隊の教育の大部分(一般・飛行・教育)を統括する航空教育集団司令部が新設された(『静岡新聞』平成元年一月十三日・二十八日、三月十七日付)。統合によって浜松基地には十二の司令部、部隊、学校が所在、基地の隊員は二千八百人となり、航空自衛隊では入間(埼玉県)、三沢(青森県)に次ぐ規模となった。十二とは、航空教育集団司令部、第一航空団、第一術科学校、第二術科学校、教材整備隊、教導高射隊、第六移動警戒隊、浜松救難隊、浜松管制隊、浜松気象隊、中部航空音楽隊、浜松地方警務隊である。なお、基地の新聞も南『はまな』・北『三方原』の両紙が終刊となり、同年四月五日新たに『遠州灘』が創刊された。

図3-8 浜松基地の発足