[浜松救難隊と災害派遣]

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【浜松救難隊】
 昭和四十六年(一九七一)三月一日航空自衛隊は航空救難群を航空救難団に改編し、小牧基地(愛知県)の救難隊を浜松南基地に移動させ、同基地の救難教育隊を小牧基地に配置替えとした。これは遠州灘や中部山岳地帯を控える中部一帯の「空の救急隊」を強化するためであった。新しい浜松救難隊は、文字通り救難業務を主体とするので、出動体制も今までのようにいったん教育業務を中止して、救難に向かうのとは違い、常時待機している隊員が直接出動するので、出動時間も半分近く短縮された(『静岡新聞』昭和四十六年二月二十六日付)。
 
【伊豆半島沖地震】
 昭和四十九年に静岡県は二度にわたって大きな災害に襲われた。五月九日の伊豆半島沖地震と七月七日の台風八号(七夕豪雨)である。五月九日の地震発生直後、県は被害状況調査のため、南基地に航空機の出動を要請、同基地では直ちにS―62ヘリコプターが出動態勢に入ったが、視界不良のため延期された。翌日南伊豆に向かい、約三十分間偵察飛行を行い、不明者の救出作業の状況や土砂崩落の現場をカメラに収め、今後の参考資料とした(『静岡新聞』昭和四十九年五月十日・十一日付)。南伊豆は震災で道路が寸断されたので、県が早く情報を得るためには、救難隊等の空からの状況把握に頼るしか方法はなかったのである。
 この年十一月同隊に大型救難ヘリ・バートル一〇七が二機配置された。この機は今までのS―62よりずっと大きく、航続距離約八百キロ、滞空時間五時間半で、西は四国から東は茨城方面までを行動範囲としていた。また、一度に二十人以上を運ぶことができ、小型のジープ等を後部から積み込める広さとパワーを持つ多用途機で、救難隊の本命機種であった。
 山岳遭難では、昭和五十三年三月十四日南アルプスで大学生が滑落し、重傷を負う事故があった。翌日静岡県警から救難の要請が入り、ヘリが出動、大学生を救助して無事に帰着、大学生は直ちに浜松市内の病院に収容された(『静岡新聞』昭和五十三年三月十五日付)。翌年五月の連休期間には山岳遭難が相次ぎ、そのたびにヘリコプターの出動が要請された。このため救難隊員は連休返上で活動、新聞記事の見出しには「救難隊員はヘトヘト」と出るほどであった。
 昭和五十六年三月二十四日救難隊のT34が愛知県南設楽郡鳳来町の上空で捜索訓練中に墜落炎上、搭乗員二名が殉職するという痛ましい事故が起きた(『静岡新聞』昭和五十六年三月二十五日・二十七日付)。