昭和五十九年(一九八四)頃から海老塚地区では、山口組系暴力団が組事務所を構えるのではないか、という噂があり、海老塚自治会を中心に住民らが進出阻止の運動を展開、昭和六十年六月、県下で初めて暴力追放推進モデル地区に指定された(『静岡新聞』昭和六十年十月五日付)。組事務所と目された海老塚二丁目のビルは同年八月に完成した(『静岡新聞』昭和六十一年八月二十日付)。これを受けて海老塚自治会、市、浜松中央署の代表らは直ちに山口組系一力一家に組事務所開設を断念するように申し入れた(『静岡新聞』昭和六十一年八月二十一日付)。そして、移転を阻止するために自治会、市、警察の関係者は、今後の住民運動を協議し(『静岡新聞』昭和六十年十月十日付)、反対のパレードや地区の総決起大会等を開催した(『静岡新聞』昭和六十年十二月八日、同六十一年四月二十一日付)。
【浜松市暴力追放市民協力会】
昭和六十一年八月、一力一家がビルの隣接地に駐車場用地を所得したことが分かり、住民側は危機感を持ち彼らへ商品不売、事務所に抗議の電話をかけるなど強力な反対運動を起こすことを決めた。こうした反対をよそに同月十八日・十九日に一力一家は移転を強行した。そこで住民側は直ちにビルの向かい側空き地に陣取り監視を始め、九月五日そこに市の援助による監視小屋が完成した(『静岡新聞』同年九月六日付)。七日には海老塚地区で浜松市暴力追放市民協力会等が海老塚町民支援市民大会を開き市内各地から千三百人が参加した。これに対し十一月五日、一力一家組長は事務所阻止運動で大きな苦痛を被ったとして住民運動のリーダーなど九人を相手取り、慰謝料一千万円の支払いを求める訴訟を起こした(『静岡新聞』昭和六十一年十一月五日付)。
住民側は監視活動を中心とした運動を推し進める一方、組事務所差し止めの請求を内容とする逆提訴の方針を発表した(『あらゆる暴力を追放して明るく住みよい町づくり』平成三年版)。これを契機に一力一家は直接暴力に訴える行動に出てきた。翌六十二年六月頃から反対運動のリーダーらへの嫌がらせ行為をたびたび起こし(『静岡新聞』昭和六十二年六月十六日付)、同二十日リーダー宅を襲った(『静岡新聞』昭和六十二年六月二十日付)。さらに同日住民側弁護団の弁護士を刺傷する事件を起こした(『静岡新聞』昭和六十二年六月二十一日付)。暴力団のなりふり構わぬやり方に警察は、海老塚地区の警備を二百人とし検問を実施し、パトカー約十台が巡回するなどの措置を講じた(『静岡新聞』昭和六十二年六月二十三日付)。刺傷事件の前後から住民側も逆提訴方針の取り扱いをめぐり意見の相違等もあってそれまで住民運動を担ってきた自治会に代わり、三百余名の海老塚訴訟原告団(海老塚を明るくする会)が結成され運動を継続、司法判断を求めて法廷で争うこととなった(『あらゆる暴力を追放して明るく住みよい町づくり』平成三年版)。翌六十三年二月十九日建物を組事務所として使用しないなどとした条件での和解が成立、翌日一力一家は組事務所を撤去した。足掛け三年の追放運動で住民側は一応目的を達成した(『静岡新聞』昭和六十三年二月二十一日付)。
また、昭和六十年から六十二年にかけて池町にあった下垂一家組事務所ビル新築を池町・田町両自治会、警察、市、暴力追放市民協力会の連携により阻止した運動があった(『あらゆる暴力を追放して明るく住みよい町づくり』平成三年版)。
図3-10 暴力団の事務所(奥)とその監視小屋(手前)