この時期(昭和四十八年から平成元年まで)の浜松市の人口は約四十五万人から約五十三万人に増加したが、それとともに人口のドーナツ化が進行していった。それに伴い郊外の学校の児童・生徒数が急増、校舎の増築だけでは間に合わない状態となった。この対策として新たな学校の建設や学区の変更などが行われるようになった。萩丘小学校は昭和六年に浜名郡曳馬村の曳馬尋常高等小学校の西分教場として設立され、同十年に曳馬西尋常小学校として独立、同十六年に浜松市萩丘国民学校、同二十二年に萩丘小学校となった歴史を持つ。戦後に葵町の開拓(浜松開拓)が始まり、人口が急増し昭和三十五年に葵町に分校を設立、二年後の同三十七年には葵が丘小学校として独立した。しかし、その後も地区の人口は急増、昭和四十四年度には児童数は千六百人を超えるまでになった。このため、泉小学校を分離、その後も高台地区の人口は増え続け、葵が丘小学校からは瑞穂小学校と初生小学校(三方原小からも)が、瑞穂小学校からは葵西小学校が独立するなど多くの小学校が出来ていった(表3―2参照)。また、積志小学校からは大瀬・中郡・有玉の三小学校が、入野小学校からは佐鳴台・西都台の二小学校が独立した。表に見える大瀬・遠州浜・砂丘・佐鳴台・西都台などの小学校は学区内に大規模な団地が造成されたために学校が建てられたのであった。浜松市の人口のドーナツ化は昭和六十年以降はほぼ終わり、小学校の新設校は昭和五十九年の葵西小学校が最後となり、その後は平成十七年の大平台小学校の開校まで途絶えることになる。
表3-2 人口のドーナツ化に伴う大規模校(分離前)と分離独立した学校の状況(小学校)
分離前の学校 | 年度 | 児童・ 生徒数 | 独立(分)校 | 独立年度 | 児童・ 生徒数 |
萩丘小学校 | 昭和34年度 | 1690人 | 萩丘小学校北分校 | 昭和35年度 | 371人 |
萩丘小学校 | 36年度 | 1179人 | 葵が丘小学校 | 37年度 | 517人 |
萩丘小学校 | 44年度 | 1652人 | 泉小学校 | 45年度 | 424人 |
積志小学校 | 44年度 | 1764人 | 大瀬小学校 | 45年度 | 440人 |
五島小学校 | 45年度 | 694人 | 遠州浜小学校 | 46年度 | 619人 |
白脇小学校 | 46年度 | 1366人 | 砂丘小学校 | 47年度 | 422人 |
積志小学校 | 47年度 | 1719人 | 中郡小学校 | 48年度 | 677人 |
与進小学校 | 51年度 | 1792人 | 与進北小学校 | 52年度 | 713人 |
入野小学校 | 51年度 | 1324人 | 佐鳴台小学校 | 52年度 | 338人 |
葵が丘小学校 | 52年度 | 1602人 | 瑞穂小学校 | 53年度 | 871人 |
富塚小学校 | 53年度 | 1271人 | 富塚西小学校 | 54年度 | 699人 |
芳川小学校 | 53年度 | 1970人 | 芳川北小学校 | 54年度 | 1054人 |
積志小学校 | 53年度 | 1745人 | 有玉小学校 | 54年度 | 811人 |
三方原小学校 葵が丘小学校 | 55年度 55年度 | 1304人 1141人 | 初生小学校 | 56年度 | 806人 |
入野小学校 | 55年度 | 1325人 | 西都台小学校 | 56年度 | 488人 |
和田小学校 | 57年度 | 1506人 | 和田東小学校 | 58年度 | 581人 |
瑞穂小学校 | 58年度 | 1549人 | 葵西小学校 | 59年度 | 799人 |