健康教育

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【全日本健康優良学校】
 浜松市の小学校で昭和二十四年度から健康教育に取り組んできたのが竜禅寺小学校であった。昭和二十六年から朝日新聞社が始めた全日本健康優良学校表彰では、早くも同二十七年に健康優良学校として表彰を受けた。同三十六年にも全日本健康優良学校として、また、虫歯の予防など様々な健康教育の実践で表彰されてきた。特に、昭和五十五年には「竜の子なわ跳び」、「おはようマラソン」をはじめ、父母や地域と協力して様々な運動が行われ、ついに大規模校の部で全国の頂点である全国特別優秀校に選ばれた。この審査ではただ単に健康教育だけでなく、登校の様子から始まって授業の内容から特別活動、委員会活動、給食、そして下校まで、学校のあらゆる活動が専門の先生方によって審査されるもので、ひとりひとりの子供たちにも厳しい質問がなされるのである。竜禅寺小学校が二十年余にわたって実践してきたことがついに実を結んだのであった。相生小学校の子供たちの体力や気力が低下し、夜型の生活をしていたのが昭和四十八年頃、学校はこれを打破すべく子供たちに一日百分間運動をさせようと取り組み始めた。家庭や地域(相生校区体育協会)と連携して各学年ごとに工夫して実践していった。この成果が実って様々な表彰を受け、ついに昭和五十四年度の全日本健康優良学校表彰・大規模校の部で全国優秀校の一つに選ばれた。山口惣一郎は春野町立豊岡小学校で校長二年目の昭和四十六年に、小規模校の部で健康優良学校全国特選校とさせた。また、同四十八年に郷里の伊佐見小学校に赴任すると、地域と一体となって健康教育に取り組み、五年目の昭和五十二年度には全日本健康優良学校表彰の大規模校の部で特選健康優良学校にまで上り詰めた。山口が同五十三年に東小学校に転任するとここでも健康教育を実践、就任四年目の五十六年、ついに東小学校は全日本健康優良学校表彰の中規模校の部で全国の頂点となる全国特別優秀校に選ばれ、その実践の様子が朝日新聞の全国版で大きく報道された。乾布摩擦や目のマッサージ、棒体操などのほか、情操面でも様々な取り組みがなされ、特別活動では、児童による多くの集会活動を実践していた。
 浜松市ではこの頃、健康教育への関心が高く、このことについて同紙は「相佐明一浜松市教育長は『健康優良校表彰は、学校のノーベル賞』というのが持論。同市では昨年の竜禅寺小に続いて、今年東小が特別優秀校に。今年はほかに浅間小が、また一昨年は相生小が、それぞれ優秀校に選ばれた。そのかげには、同教育長ら関係者の努力があったといわれる。」と記した。当時の浜松の教育の質の高さを全国に示す結果ともなった。このほかにも泉小学校が昭和五十年に特選校、六十一年に都田南小学校が全国優秀校、六十二年に滝沢小学校が全国優秀校、六十三年に新津小学校が全国特別優秀校、平成元年に西都台小学校が全国特別優秀校に選ばれている。全日本健康優良学校表彰は、平成三年度から全日本健康推進学校表彰と名称を変え、同五年度には有玉小学校がすこやか大賞を受賞するなど、浜松の多くの学校が心と体の教育に熱心に取り組んだ。
 なお、山口は校長在職十四年間にわたる健康優良学校への取り組みを『健康優良学校への道』として刊行、その具体的な実践は地元はもとより中央でも高い評価を得たのであった。
 
【スポーツテスト 部活動】
 一方、中学校でもスポーツテスト(運動能力テスト・体力診断テスト)の結果を直視し、体育の授業以外に体力づくりの時間を設定して、体操、ダッシュ、雲梯、攀登棒(はんとうぼう)(登り棒)、鉄棒などを行い、生徒のの体位・体力の向上に取り組んだ。また、中学校体育連盟主催による各種の大会が行われ、力と技を競い合った。この時期、浜松市の中学校の部活動は大変盛んで、市内大会、西部大会を勝ち抜いた個人や団体は県大会に出場し、多くの学校が県大会で優勝、東海や全国大会にまで駒を進めた。県大会に出るのも容易ではないが、中には全国大会で上位に入ったものもあった。昭和五十二年に北星中学校のサッカー部は全国大会で第三位、同五十六年には静大附属浜松中学校の小野晃司が走り高跳びで優勝するなど活躍が続いた。昭和六十一年度の全国中学校総合体育大会に浜松市内から出場したのは陸上、水泳、柔道、バスケットボール、サッカー、卓球の六種目、十八校の選手・監督合わせて百十三人であった。この大会では東陽中学校の対馬あゆみが砲丸投げで、積志中学校の松川伸治が棒高跳びで、高台中学校の内藤直樹が板飛び込みでそれぞれ優勝、高台中学校は飛び込み男子で第一位に輝いた。サッカーでは湖東中学校が、男子バスケットボールでは開成中学校が第三位に入った。同年十月に開かれた浜松市スポーツ祭では東陽中学校チームが男子千六百メートルリレーで三分二十八秒二の中学日本最高記録を出している。これらの好成績の背景には休みも返上しての熱心な指導者がいたことを忘れてはならない。