【校内暴力】
いつの時代にも学校には様々な問題が起こっていたが、昭和四十年代の半ば頃から授業についていけない子供たちがやや増え始め、その中の一部は非行に走る者が出て来た。そして、昭和五十年代になるとたばこやシンナーに手を出し、中には校内暴力を引き起こす者も出た。こうした生徒が一校に数人も出ると校舎の施設や器具の破壊、落書き、教師の自動車へのいたずらなど今まで考えられないような〝事件〟も目立つようになった。昭和五十七年十二月には市内のある中学校で生徒や教師に暴行を加えた生徒十五人が浜松東署に検挙・補導された。この学校では前年に給食のパイナップルに農薬が混入されたり、ガラス割り、落書きなどのいたずらが頻発していた。事件を報じた新聞には浜松東署の談話として「…学校、父兄、地域が一体となった集団指導体制をとることが必要」と出ていた。同五十九年には浜松の別の中学校で校内暴力を働いた三年生七人を浜松東署が検挙・補導している。このほか警察の介入しない小さな事件はかなりの数に上っていた。
【登校拒否】
昭和五十年代に入って問題になったものの一つに登校拒否がある。昭和五十一年度に西遠総合教育センターに寄せられた登校拒否の相談件数は七十一件、それが同五十二年度は九月までに昨年の二倍にも増えたという。この時代の登校拒否児に共通する特色は、いざ登校する段になると実際に頭痛、腹痛、下痢などになり、登校できなくなるというものであった。浜松市青少年補導センターで電話相談室を開設したのは昭和五十三年四月、開設半年で六十四件を受理、無断外泊、万引きなどもあったが、一番多かったのは登校拒否であった。昭和五十年代に起きた登校拒否の理由として挙げられているのは、優等生の息切れ、母子分離不安、学業の挫折、非行を伴う怠学などであった。登校拒否の原因ははっきりしないものが多く、それだけにこれといった答えはないという。多くの子供たちに共通することを挙げると、親の過保護からくる忍耐力の欠如、消極性、集団生活や規律への抵抗感、父権喪失、口やかましい教育ママの存在などであった。また、その背景には日本が世界有数の経済大国となり、豊かで快適な生活を送れるようになり、幼児の頃から大切に育てられ過ぎたこともあったようだ。
【いじめ】
昭和六十一年二月一日に起こった東京都中野区立中野富士見中学校二年生の男子生徒のいじめによる自殺は全国に衝撃を与えた。自殺した少年の遺書、次々に明らかになった長期にわたる陰湿で残忍ないじめの実態はすさまじいものであった。これまで浜松にも、無視、仲間外れ、暴言、使い走り、たかり、暴力などのいわゆる〝いじめ〟はあったが、これを機に多くの学校ではいじめの実態調査を行い、その防止に立ち上がった。浜松市教育委員会では同年四月からいじめ問題に対処するための専門相談員を常駐させることにした。また、いじめは深刻な人権侵害とのことから、市の人権擁護委員協議会も立ち上がって様々な対応策を打ち出した。盛り上がったいじめ撲滅運動も時が経つと次第に話題にならなくなり、この後、浜松でもいじめによる悲惨な自殺事件が起きることになる。