【帰国子女教育 国際理解教育】
日本経済の国際化が進行すると、浜松地方の輸送用機械、楽器、電子機器などの企業の海外進出が盛んになり、現地での販売や生産のために駐在するビジネスマンが増えていった。父母と共に外国に渡った子供たちは現地の日本人学校や補習授業校、それらがない所では現地校に入って教育を受けることになる。これら海外での教育の受け方や帰国してからの学校生活については様々な悩み事が多かった。浜松商工会議所が海外駐在員の子女教育の相談会を初めて開催したのは昭和五十六年四月二十日、現地の教育事情や転学の手続き、また、帰国時の編入学・進学などの相談が行われた。八月には海外の日本人学校で指導に当たった教員なども交えて懇談会を実施した。同会議所が海外派遣駐在員と帯同子女の実態調査を行い、その結果が昭和五十七年三月十一日発行の『浜松商工時報』に発表された。それによると、昭和五十六年一年間に派遣(帰国)した駐在員は百五十八名(赴任九十七名、帰国六十一名)で、その帯同子女は百八十九名(出国百六名、帰国八十三名)、この数は前年を大幅に上回り、この傾向は今後も続くとしている。海外子女の滞在地調査では北米地域が十都市百九十名で全体のほぼ半数、次いで欧州地域が六都市八十三名、アジア地域が七都市七十四名などとなっていた。昭和六十年の調査では世界四十一都市に三百五十四名の駐在員がおり、滞在子女は四百四十名、そのうち、日本人学校に通う者は百二十五名、現地校には百二十二名、未就学は百九十一名、その他二名であった。未就学は学齢に達していない幼児などで、その子たちの言語やしつけなども問題となっていた。これら海外で数年間の教育を受けた後、日本に帰国する子供たちは「帰国子女」と呼ばれるようになり、その子供たちが浜松やその周辺の学校に入るようになると様々な問題が出てきた。現地校で学んだ子供は言葉や文字の習得に悩み、初めて習う音楽のリコーダーや体育の鉄棒や跳び箱に戸惑いを隠せなかった。欧米の個を尊重する教育で育ってきた子供は集団でてきぱきと行動する日本の子供たちについていけなかったり、給食やクラブ活動、一斉授業、土曜日も授業がある(当時は学校週五日制ではなかった)、学校の便所などに戸惑うなど、学習はもとより文化全般にわたって異なる日本社会にうまく適応できなかった。教師は一刻も早く日本の学校の子供たちと協調し、適応していく能力を養いたいとするのであるが、これだけではうまくいかなかった。これを受けて、広沢小学校は昭和五十九年度から四カ年にわたって県教育委員会、文部省、浜松市教育委員会の帰国子女教育の研究指定校(協力校、中心校)となり、様々な研究と実践を積んだ。帰国子女への望ましい適応指導をひとりひとりの個性にあったものとし、全校の子供には国際理解に目を向けさせ、国際感覚を身に付けた心豊かな子供の育成を図り、国際理解委員会などもつくり、多彩な活動に取り組んだ。また、言語や行動の異なる子供はいじめに遭うこともあり、各校では特に注意を払った。また、高校や大学入試では帰国子女にいろいろな援助の手が差し伸べられた。昭和六十年代から浜松湖南高校、浜松北高校、浜松医科大学などに特別枠や推薦入学などの措置が取られるようになった。この後、多くの外国人の子女が浜松の学校に入るようになると、多くの学校が国際理解教育を行うようになった。
なお、浜松から海外の日本人学校に派遣された多くの教員は帰国後、帰国子女教育の相談員として各方面で講演、相談などの活動に参加し、帰国子女のために尽くしている。