【市立幼稚園】
市立の幼稚園は戦後浜松市に合併した地域に出来た。この時期には比較的近接する地域で園児の少ない幼稚園の統合が行われた。昭和四十九年四月には佐浜と伊左地の両幼稚園が統合して伊佐見幼稚園に、同五十七年四月に鹿島・堀江・白洲の三幼稚園が統合されて北庄内幼稚園となった。
【私立幼稚園 入園料 保育料】
昭和五十一年度、郊外で都市化が進んだ長上・芳川・積志地区にあった与進・芳川・万斛の各幼稚園は園児の数が三百人を超えるようになった。この時期、私立幼稚園ではこのような都市化の進んだ地区へ進出する園もあり、昭和五十二年に天王幼稚園(天王町)、篠ケ瀬幼稚園(篠ケ瀬町)、追分幼稚園(葵町)、同五十三年に旭ヶ丘幼稚園(初生町)、同五十五年に佐鳴台幼稚園(佐鳴台二丁目)、同六十一年に百花幼稚園(根洗町)が開園した。追分・佐鳴台を除いて、ほかは市立幼稚園が存在する地域であった。この頃浜松の幼稚園で大きな問題となっていたのは公立と私立の父母負担の格差があまりにも大きなことであった。昭和四十九年度では市立幼稚園の入園料は百円、保育料は月千円であるのに対し、私立では平均して入園料が一万円、保育料は月六千五百円となっていた。このため、私立幼稚園の保護者たちは私立幼稚園児にも市が教育費を助成すべきとの声を上げ、市は少額ではあったが昭和五十年度から実施することにした。同時に格差是正のために市立幼稚園の入園料と保育料を順次値上げすることにし、同五十二年度には入園料は三千円に、保育料は月五千円になった。同時期の私立の入園料は二万円から二万五千円、保育料は月一万円前後であった。
この時期、多くの幼稚園は鉄筋コンクリート建て園舎となり、基地周辺の園では防音工事が行われた。うさぎや小鳥の小屋ができ、グローブジャングル、総合遊具などの施設が揃い、子供たちを喜ばせた。また、プールや砂場には日よけを設置したり、広い敷地を有する幼稚園には野菜畑がつくられ、園内で勤労体験が出来るようになった。地震や交通事故防止への様々な取り組みも行われた。