高校生の第二次急増期に向けて新しい高校の設置が検討され始めたのは昭和五十年代の半ばであった。広い敷地を中心部に求めることは不可能、また、これまで高校が少なかった地区につくるということで、公立は浜松市の西部(馬郡町)と南東部(江之島町)、私立は北西部(和地町)に建設されることになった。そして、昭和五十八年四月に県立浜松湖南高等学校(馬郡町)と私立のオイスカ高等学校(和地町)が開校した。浜松湖南高校は普通科と英語科の併設校で、英語科は「海外でも活躍できる人材の育成」を目指してつくられ、L.L教室を完備し、外国人の講師による授業も行われた(図3―17)。オイスカ高校はこれまで浜北市新原にあった天文地学専門学校を母体として新たに創設された全寮制の高校で、OISCA(産業・精神・文化の発展高揚のための国際機構)が国際人育成の拠点として設置したものである。OISCAは発展途上国への産業開発協力事業などを行う国際機構で、フィリピンやマレーシアなどの国々で農業などの技術指導を行ったり、研修生を受け入れているため、普通科の高校ではあるが、農業実習が必修科目であった。そして、アジア各国への短期留学研修や交換留学などが行われた。昭和五十九年四月に開校したのは県立浜松江之島高等学校(江之島町)、普通科の高校であったが、公立高校として珍しい芸術コース(平成五年より芸術科)を設けたことで注目された。芸術コースは美術と音楽の履修時間を多くし、音楽大学や美術大学を目指す生徒が数多く入学した。この二年間に三つの高校が設置されたことにより、浜松市から愛知県内(豊橋市、豊川市など)や県内の磐田市や島田市などの高校に通う生徒は少なくなった。これ以降、浜松には公立高校の設置はなく、私立も平成十八年四月の浜松啓陽高等学校の開校まで無かった。
図3-17 L.L教室の授業風景