[浜松商業高校の選抜優勝と各校の活躍]

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【浜松商業高校選抜優勝】
 高等学校の部活動のうち、甲子園での野球の大会ほど大きく報道されるものはない。これは新聞社などが主催のため紙面で大きく報道され、さらにラジオ・テレビで全試合が放送されるためであろう。昭和五十三年の三月から四月にかけて行われた第五十回選抜高校野球大会には浜松商業高等学校が出場、早稲田実業学校や東北高校などの強豪チームを次々に破り、四月五日に行われた決勝戦では福井商業高校と対戦、樽井徹投手が三度目の完封、また、バックの攻守もあって二対〇で見事初優勝に輝き全国の頂点に立った。これまで春と夏の甲子園大会では静岡中学校(今の静岡高校)、韮山高校、静岡商業高校が全国制覇を成し遂げていたが、浜松の学校としては初めてのことで浜松市内は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。四月六日の午後五時前、紫紺の大優勝旗が浜松駅に到着すると駅前を埋め尽くした二万人の市民の熱狂的な歓迎を受け、駅前から浜松市体育館までのオープンカーによる優勝パレードには浜松の歴史始まって以来の人出と言われたほどの人(二十万人)が詰め掛けた。多くのビルには「祝 浜商初優勝」などの垂れ幕が飾られ、商店街のアーケードの上にも人が鈴なりといった状態であった。体育館での優勝祝賀会の後、浜松商工会議所主催のちょうちん行列も盛大に行われ、市内は一日中「浜商、浜商」で盛り上がった。優勝時の監督は昭和四十八年以来指導してきた磯部修三、名監督と言われ同五十年の夏の大会にも出場していた。主将は森下知幸、森下は同五十九年に母校を率いて甲子園に出場、また、平成十九年には常葉学園菊川高校を率いて見事全国優勝に導いた。なお、卒業生で米屋を経営していた田中栄太郎は昭和五年に浜商を卒業以来野球部の応援を続け、浜商の試合には「必勝浜商」「ガンバレ浜商」と記した大ウチワを振り続け、浜商応援の名物男として市民にその名を知られた(第50回選抜高校野球大会優勝記念誌『闘魂』)。
 
【溝口紀子】
 野球以外のスポーツでも全国高校総体や国体、国際大会などで多くの選手が個人や総合で全国優勝を果たした。紙数の関係でその全てを記すことが出来ないが、そのうち幾つかを紹介する。昭和四十九年に行われた全国高等学校定時制通信制体育大会で浜松北高校は陸上競技で大活躍、その後も全国優勝を果たす選手が続出した。同五十二年には浜松商業高校の陸上部は男子総合とトラックの部で優勝、全国の頂点に立ち、以後も「陸上の浜商」は全国に知られた。昭和五十七年と五十八年の全国総体の女子砲丸投げでは浜松市立高校の大塚真澄がなんと二連覇、浜松工業高校の鈴木文は少年女子砲丸投げで昭和五十八年の群馬国体からなんと三連覇、六十年の全国総体でも優勝するという快挙を成し遂げた。浜松西高校の溝口紀子は平成元年二月にフランス国際女子柔道大会の五十二キロ級で優勝、世界にその名を知られた。溝口は後にバルセロナ五輪で五十二キロ級で銀メダルを取るなど大活躍した。
 文化面での活躍も多く運動部同様その全てを書けないが、そのうち幾つかを紹介する。浜松工業高校の吹奏楽部の活躍は第二章で触れたが、昭和五十年代になっても全国コンクールで金賞が続いた。指揮者の遠山栄一(詠一)が昭和五十八年に浜松商業高校に転任すると、浜松商業高校の吹奏楽部は翌年に全日本吹奏楽コンクールに初出場、そして同六十一年には全国の頂点となる金賞を獲得、同年には全日本マーチングバンドコンテストでも金賞に輝き、以後、平成になっても浜商の吹奏楽部は金賞を獲得していく。これ以前に浜松商業高校にはリードバンド部があり、昭和四十年代から六十一年まで全国優勝は十六回という活躍をした。浜松市立高校の合唱部は昭和五十年代の後半から力を付け、同六十三年には全日本合唱コンクール全国大会で銀賞を受賞、平成に入ってヨーロッパヘ演奏旅行に出掛けた。浜松商業高校定時制の珠算部は昭和五十年から四年連続全国定時制通信制珠算競技大会で団体、個人優勝に輝き、同じく全日制の速記部も県の大会では昭和二十七年以来平成に入るまでほとんど優勝するといった活躍をした。これら部活動の良い成績は選手自らの努力はもちろん、監督・コーチ、担当者の優れた指導力によるものであった。