[常葉学園浜松大学の開学]

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【常葉学園浜松大学】
 昭和六十三年四月に常葉(とこは)学園浜松大学が都田町に開学、第一回入学式が行われた。同大学の敷地は昭和四十年代の半ばに機械金属総合団地として建設が内定していたが、オイルショックなどの経済情勢の変化で、市が買収したままの状態で放置されていた。静岡市に本部がある学校法人常葉学園は昭和五十年代の後半から浜松市への進出を検討していたが、これが浜松市が推進していた浜松テクノポリスの産業情報大学設置構想と一致し、テクノポリス推進に積極的に協力することになった。このため、市は都田町に持っていた土地を常葉学園に売却することにし、昭和五十九年十月に土地売買契約が成立した。当初は浜松産業情報大学(仮称)で、浜松地域テクノポリス構想の中で学術研究機関の一翼を担い、先端技術産業の技術者を養成することを目的に、産業情報学部を設置、学科は産業情報学科(定員二百人)、産業経営学科(同百人)、産業デザイン学科(同六十人)とし、一学年三百六十人を予定していた。常葉学園は昭和六十一年五月に、大学名を常葉学園浜松大学とし、設置する学部・学科を経営学部・経営情報学科とし、一学年の定員を二百名として文部省に申請することにした。昭和六十二年十二月に文部大臣から設置認可書が交付され、これ以降地元を中心に学生募集が行われた。初代の学長は浜松市出身で労働省産業医学総合研究部長などを務めていた長谷川弘道、彼は定年を前に退官し、大学設置に向けて中心的な働きをした。一月と二月に行われた入試には多数の応募者があり、四月の入学式には二百六十六人を迎えて開学したのであった。
 なお、常葉学園の創立者は今の西区入野町にある龍雲寺に生を受けた木宮泰彦、昭和二十一年静岡市に静岡女子高等学院を設立以来、中学、高校、短大、幼稚園などを次々に開校、泰彦の逝去後は木宮和彦が理事長に就任、昭和四十七年には小笠郡菊川町に常葉学園菊川高校を設立、その後常葉学園大学を設立するなど、県内の私学としては最大の規模を誇る一大総合学園になっていた。浜松は学園創立者出生の地でもあり、開学の年に創立者の銅像除幕式が行われ、念願の浜松進出を祝った。