[特殊学級と交流教育]

519 ~ 521 / 1229ページ
【特殊学級 交流教育】
 これまで一部の小中学校に設けられていた精神薄弱児の学級は昭和六十年代には三十校前後にまで増え、言語障害学級を置く学校も増えた。昭和五十年代には自閉症児を含む情緒障害児がやや多くなり、普通学級での生活や学習に支障を来すようになった。このため、情緒障害学級が市内数校に設置された。昭和六十一年四月からは東小学校に言語障害児のための言語(幼児言語)障害学級(ことばの教室)が開設された。この教室の対象児童は幼稚園・保育園児と小学校の六年生までで、普段は通常の幼稚園・保育園・学校に通い、週一~二回通級して指導を受けるというものであった。これら特殊学級はそれぞれの障害に合わせた教育がなされたが、普通学級との交流も一部の教科で行われたり、学校行事や体力づくり、清掃などの活動でも積極的な交流が図られた。これらの校内での交流のほか、盲学校、聾学校、養護学校とその近くの学校の間では様々な交流が行われるようになった。浜松聾学校と上島小学校の交流が始まったのは昭和四十七年秋。聾学校の小学部五・六年生が上島小学校の運動会に招待されたのがきっかけだった。以後、スポーツテストや合同学習、修学旅行などで交流を続けていった。両校の児童はこれを通して助け合いの心や思いやりの心などを学んだのであった。西部養護学校と都田南小学校の交流教育は七夕集会(七夕飾りの製作、飾り付け、歌、寸劇など)、ふれあい集会(歓迎会、風船バレー、ゲームなど)、豆まき集会、学習発表会(演奏発表など)が両校を会場に行われ、児童だけでなく、父母の参加も多数見られた。吉野小学校は浜松盲学校と年間十回程度の交流教育を行い、いちご狩り、観劇、小運動会、林間学校、音楽会などその交流は多岐にわたっていた。遠州浜小学校では浜松養護学校との交流教育が行われたが、その狙いには①障害児を正しく認識しようとする心を育てる、②相手の立場を考えて行動する思いやりの心を育てる、③自分を見つめ、よりよく成長しようとする心を育てる、となっていた。このほか、多くの中学校ではブラスバンドの演奏などで養護学校との交流が行われた。養護学校の広い会場で行われた演奏会に肢体の不自由な子供たちが自力で懸命になって歩いてくる姿を見て、中学生は驚き、感動して涙を浮かべる者さえいた。
 これらの交流教育によって一般の小中学生たちは普段の学校生活では学べない貴重な体験をすることが出来たのである。