昭和五十年当時、浜松市の公民館は合併前の村によって建てられた中ノ町・都田・伊佐見・和地・庄内中央の五公民館と浜松市が建てた東部・西部・北部の八公民館であった。昭和四十九年に完成した北部公民館(葵町)は市立の公民館としてはわが国屈指の規模で、大勢の利用者でにぎわった。市民からはこのような公民館を身近なところに造ってほしいとの声が数多く寄せられた。浜松市は公民館建設基本計画を策定し、これ以降旧市内には南部・中部・曳馬の各地区に新設し、周辺部には原則として中学校区に一館を建てることとした。昭和五十四年度予算では積志・三方原・入野・南陽の四公民館が、翌年度の予算では新津・長上・天竜・蒲の四公民館がそれぞれ建てられることになり、公民館の設置は急速に進んだ。平成二年(一九九〇)四月に県居公民館が開館、市内の公民館数は二十七を数えた。浜松市の公民館網は全国に誇り得るものとなり、昭和六十三年度の利用者は百六十万人を超えた(図3―19)。公民館では成人学校、成人講座、芸術文化講座、こども講座、地域ふれあい事業などが開設され、また、昭和四十七年には東部公民館で県下初の公民館まつりが開催された。以後、公民館まつりは各館で行われるようになり、地域の人々の芸術作品の展示、歌や踊りなどの実演、地元産品の販売、バザーなど地域を挙げての一大イベントとなっていった。なお、公民館利用者の急増は昭和五十四年度から建設が始まった公民館付設体育館の完成によるところが大きい。
昭和六十二年から各公民館によって編集・発行された『わが町文化誌』は公民館にとって画期的な活動となったが、これについては第九節で詳述する。
図3-19 公民館の配置図と公民館数・利用者数