武道関係者の長年の要望を受け、浜松市は県下で初めての大型武道館の建設に乗り出した。こうして浜松市武道館が昭和五十二年四月十日に西浅田二丁目に開館した。二階には道場が設けられ、柔道や剣道などの武道に合わせて全面床、または畳敷きが可能なものとし、観覧席も四百席設けられた。ここでは柔道、剣道、銃剣道、空手道、少林寺拳法、日本拳法、合気道などの武道を行うことができ、初年度の利用者は七万人を超えた。
【浜松勤労者体育センター】
福利厚生施設が乏しい中小企業に働く青少年のために雇用促進事業団と静岡県、浜松市は浜松勤労者体育センターを昭和五十三年四月に新橋町に開設した。ここは体育室・トレーニング室などを備えた大きな体育館と野球場を備えていた。野球場は両翼九十二メートル、中堅百十メートルという大きなもので、ナイターで試合を行うことも出来た。翌年には庭球場も出来て、勤労者だけでなく一般市民も利用するようになった。
【庭球場 弓道場】
浜松城公園庭球場は昭和三十二年の国体の庭球場になったところ、ここを拡張してクレー八面と練習場一とし、三千人収容のスタンドなどを整備、昭和五十四年三月に完成した。この庭球場の少し東(今の松韻亭の位置)に浜松城公園弓道場が同年四月に開場した。ここには近的用(二十八メートル)九人立と遠的用(六十メートル)三人立の射場が出来た。庭球場と弓道場は夜間照明付きで大勢の利用者でにぎわった。
【江之島水泳場】
昭和二十五年八月八日、古橋選手やアメリカの一流水泳選手を迎えて日米交歓水上大会の舞台となった浜松市営プール(元城プール)はこの後も様々な大会が開催されてきた。昭和五十年代に入ると老朽化が目立ち始め、市はこれに代わるものとして江之島町に遠州灘海浜公園江之島水泳場を建設した。ここは昭和四十五年にごみ焼却場の熱を利用して建設された屋内温水プールに隣接した位置にあり、五十メートル競泳プール(九コース)と飛び込みプールは日本水泳連盟公認プールとなった。このプールには二千五百人収容のスタンド、電光掲示板、ナイター設備、トレーニング室などを備えていた。この江之島水泳場は昭和五十四年六月二日にオープン、浜松市立高校のシンクロナイズドスイミングクラブの演技や浜名湾高校生選手権水泳競技大会が行われ、新プールの門出を飾った。翌年には屋外に二十五メートルプールが完成した。
【漕艇場】
佐鳴湖はボート競技には絶好の場であり、昭和三十二年の国体ボート競技はここで行われた。八百、千メートルの各三コースと桟橋三、そして艇庫一棟を備えた浜松市営漕艇場(佐鳴湖漕艇場)は国体時に完成しただけあって老朽化が進み、競技会の開催にも支障が出てきた。浜松市佐鳴湖漕艇場の新艇庫が完成したのは昭和五十四年四月十七日であった。鉄筋コンクリート二階建てで、二十四艇が収容でき、大会事務室、会議室も設けられて大きな大会の開催も可能となった。市はこの艇庫の完成に合わせてナックルフォア艇を新たに五艇を購入し、ボート競技の振興を図ることとした。そして同年六月には県実業団社会人漕艇選手権大会と高校総体漕艇競技大会県予選のボート大会が開催された。また、同五十六年七月二十五日からカヌーの全日本女子選手権競漕大会、中部選手権競漕大会、全国中学選手権競漕大会が佐鳴湖漕艇場で開かれ、全国から約七百人の選手が参加、佐鳴湖の名前は関係者によく知られるようになった。なお、佐鳴湖の西にある入野中学校はこの頃からボートによる体力づくりに取り組み、全校でボート大会を開くまでになった。また、同中学校のボート部は後に中学校の全国大会で優勝できるまでになった。
【浜松球場】
浜松市営球場は昭和二十三年に完成、長年多くの野球ファンを喜ばせたが、同五十年代に入ると老朽化が進んだ。このため旧球場を取り壊し、グラウンドは太陽光線をまともに受けないように向きを変えるなど大規模な工事となった。そして、両翼九十一メートル、中堅百十八メートルのグラウンド、収容人員三万人(内野は一万千三百四十人、外野は一万八千六百六十人)のスタンド、ナイター試合用の照明設備が完備した浜松球場がオープンしたのは昭和五十四年六月二十四日のことであった(図3―20)。球場開きは開場式に続いて高校野球の招待試合が行われた。同年八月三十一日には初ナイターで中日阪神戦が行われた。
図3-20 ナイター設備も完備された浜松球場
【浜松市相撲場】
中田島町の遠州灘海浜公園に浜松市相撲場が完成、そのこけら落としとして東海相撲大会と東海選抜中学生相撲大会が昭和五十五年八月二十四日に開かれた。相撲場は直径四・五五メートルの土俵と鉄骨製の東屋が設けられ、土俵の周囲には約五百人収容の観覧席を兼ねた芝生広場が設けられた。なお、この道場の開場に際しては浜松市相撲連盟の天方啓二会長の尽力によるところが大きかった。
【陸上競技場】
上島町の市営陸上競技場は昭和十五年の建設、ここも老朽化に伴い旧競技場を取り壊して、その名称を浜松市四ツ池公園陸上競技場として開場したのは昭和五十六年四月二十六日であった。これまで水はけの悪さに悩まされてきたが、今回の改修では全天候舗装グラウンドとなり、また、風向きによってメインスタンド、バックスタンドのどちらからでもスタートが出来るようになった。グラウンドの規模は第二種公認の一周四百メートル八コース、インフィールドでは砲丸投げ、槍投げ、円盤投げ、ハンマー投げ、走り高跳び、走り幅跳び、三段跳びなども出来るようになった。スタンドは一万人の収容能力を持たせ、特にメインスタンドは全体が屋根で覆われた。四月二十六日の開場式の後は、全国の一流選手を招いての招待陸上競技会と千人を超える市内の選手が参加してのリレーカーニバルが行われ、スタンドには五千人の観衆が詰め掛け、オープンを祝った。四ツ池公園の緑に囲まれた良い環境の中に近代的な陸上競技場が誕生したが、既に完成した隣接の浜松球場と相まって市民の体力増強、健康の増進に大きな力となった。
【浜松球技場】
浜松でサッカーの人気が出てきたのは昭和四十二年に県の社会人サッカーリーグが誕生した頃からであった。昭和四十五年と同四十九年は浜名高校が全国総体で全国優勝をすると、多くの子供たちがサッカーをするようになった。サッカーの練習や試合の多くは学校のグラウンドを使用したが、専用グラウンド設置の声が上がった。これを受けて静岡県は江之島町の遠州灘海浜公園内に浜松球技場を建設、昭和六十三年十月九日に開場した。フィールドはサッカー・ラクビー兼用で、観客の収容人員は一万二千五百人であった。
このほか、市内には多くの野球場、ソフトボール場、運動広場などが造られた。