[教化活動の現れ]

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 宮沢賢治は昭和六年九月、東京で病に倒れて帰郷、そのまま病の床に就いた。十一月三日、病床で手帳に「雨ニモマケズ」で始まる独白を書き残した(井上ひさし著『宮澤賢治に聞く』)。この詩は宗教的理想と実践活動とによって育まれた精神が言語化されたものであり、生涯の時間が凝縮したものであったろう。それは今日の宗教者にも通底する心情ではなかろうか。人々の喜怒哀楽に寄り添い、諸手(もろて)を差し伸べ、言葉をかける。示唆を与えて激励する。その身辺に生きる人々の様々な要求や願望に応えようとして、市民生活を支えていよう。それらはあまりにも多岐・多彩であろう。ましてこのような宗教者や教団の姿が新聞紙上に報道されるのは、いかほどのものであろうか。
 『静岡新聞』に掲載された教団・宗派の教化活動の逐条を、ここでは到底網羅することは出来ないので、その一斑を紹介するにとどめる。
 
(1)神道の場合
 昭和五十二年四月十五日付記事では、浜松市民会館で第二十五回県神社関係者大会が開催され、靖国神社国家護持法案の実現化を図り、伝統文化護持、神道精神の復活、元号制度確立を宣言している。
 浜松茶商組合による五社神社への献茶式は地場産業としての茶業の振興発展を祈願するもので、毎年の五月三日頃の恒例行事として報道されている。
 
【秋葉神社】
 昭和六十二年一月二十九日付記事として、三組町の秋葉神社で、管粥(くだがゆ)祭・焼納祭が執行され、浜松市近在から多数の参拝客を集めていることが報じられている。管粥祭はその年の農作物の豊凶を占い、焼納祭は新年飾りなどを神前に納めるものである。神仏習合の歴史と伝統を背景にして、秋葉信仰を奉ずる遠州地方の重要な習俗行事であり、火防の神・秋葉三尺坊大権現を祀る信仰拠点として浜松市内には三分院(秋葉神社・三組町、舘山寺・舘山寺町、保泉寺・篠原町)がある。
 
【浜松八幡宮】
 昭和六十二年八月十四日、八幡町の浜松八幡宮では例大祭恒例の奉納相撲大会が開催された。浜松八幡宮では例大祭で剣道・弓道が奉納されてきたが、高齢化や参加者減少のために、昭和五十三年から相撲奉納に切り替えたという。幼稚園児、小学生、浜松商業高等学校相撲部員(十五人)、一般(十人)が参加した。大会終了後には敬神婦人会が作ったちゃんこ鍋を食べたと報じている(同六十二年八月十五日付記事)。
 昭和六十三年二月三日、五社神社で節分の豆まきが行われ、約千人の市民でにぎわったと報じた(同年二月四日付記事)。戦災で中絶していたものを四年前に復活している。
 
(2)仏教の場合
 この時期、浜松市の仏教界の変化は葬式仏教の称を脱したものであろう。死者を弔う本来はさりながら、生者に向き合う仏教として、市民生活の多様性に即応した教化活動が展開する。
 
【天林寺】
 寺院側の積極的な教化活動の例のうち、鴨江寺(高野山真言宗・鴨江四丁目)の春秋彼岸会や蔵興寺(臨済宗方広寺派・新橋町)の虚空蔵菩薩大祭などのような周知の祭礼行事、また、宗派において毎年行われるような行事についてここでは言及しない。他方、宗派において特別な記念日、あるいは教区の拠点寺院における特別な忌日を期して執行される一大宗教行事について言及すれば、授戒会がある。ただし、浄土真宗以外の宗派で執行されるものである。昭和六十三年十一月八日付記事で、天林寺(曹洞宗・下池川町)の開山五百年を記念し、報恩授戒会が天竜川以西百六十寺院を結集、信者三千人を集め五日間にわたって執行されたことが報じられている。この準備は昭和六十一年の天林寺本堂完成を期してなされたという。